長宗我部元親の四国統一は、いきなり始まったわけではありません。まず立ちはだかったのが、同じ土佐の宿敵・本山(もとやま)氏でした。しかもこの二家は、争いながらも姻戚――親戚どうしでもあったのです。長宗我部を鍛え上げ、四国統一への“かなめ”となった、本山氏との死闘をたどります。
土佐に並び立った二つの勢力
戦国初期の土佐では、岡豊城を本拠とする長宗我部氏と、土佐中央部を押さえる本山氏が向かい合っていました。とりわけ本山茂宗(梅慶)は、周辺の国人を従えて勢力を拡大し、一時は土佐きっての実力者となります。若き長宗我部にとって、本山氏はまさに越えるべき最大の壁でした。
一度は滅びかけた長宗我部
その本山氏の圧力の前に、長宗我部氏は存亡の危機に立たされます。元親の父・長宗我部国親は、本山勢に岡豊城を追われ、幼くして一族は没落。国親は土佐西部の一条氏を頼って雌伏の時を過ごしました。やがて一条氏の後ろ盾を得て岡豊城への復帰を果たしますが、本山氏との緊張は続きます。
宿敵にして、親戚
両家はいったん和睦の道を選びます。その証として、国親は自らの娘を本山氏の当主・本山茂辰に嫁がせました。つまり茂辰は、国親の娘婿であり、元親にとっては義兄にあたります。宿敵でありながら、身内でもある――このねじれた関係が、のちの戦いをいっそう複雑で悲劇的なものにしていきました。
長浜の戦い、元親の初陣
和睦は長く続きませんでした。永禄3年(1560年)、両家はついに長浜の戦いで激突します。このとき初陣を迎えたのが、色白で物静かなことから「姫若子」とあなどられていた長宗我部元親でした。ところが元親は槍をふるって奮戦し、本山勢を打ち破って「鬼若子」と恐れられる存在に一変します。だがその直後、父・国親が病に倒れて世を去り、元親は若くして家督を継ぐことになりました。
義兄との決着
家督を継いだ元親は、義兄・茂辰の本山氏を執拗に攻め立てます。半農半兵の一領具足を率いる元親の前に、本山勢は次第に追い詰められていきました。そして永禄11年(1568年)ごろ、茂辰の子・本山親茂がついに降伏します。親茂は元親から「親」の一字を与えられて臣従し、ここに土佐中央をめぐる長い抗争は決着しました。身内同士の争いは、こうして幕を閉じたのです。
四国統一の、かなめ
本山氏を降したことで、元親は土佐の中央部を手に入れ、土佐統一へと大きく前進しました。宿敵にして親戚でもあった本山氏との死闘は、若き元親を鍛え、長宗我部を飛躍させる“かなめ”となったのです。この勝利を土台に、元親は四国統一への軌跡を歩み始めます。兄弟に支えられた元親の物語も、あわせてお楽しみください。
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