2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で描かれる四国攻め。その舞台・四国を、ひとつにまとめ上げようとした一族がありました。長宗我部(ちょうそかべ)氏です。土佐の小さな国人から身を起こし、四国のほぼ全域を制するにいたったその快進撃は、当主・元親ひとりの力ではありません。彼を支えた弟たちの存在があってこそでした。豊臣に兄弟の物語があったように、長宗我部にもまた、兄弟で天下ならぬ「四国」に挑んだ物語があったのです。
長宗我部国親の子——四人の兄弟
長宗我部氏を再興した父・国親(くにちか)のもとに生まれたのが、元親(もとちか)・吉良親貞(きら ちかさだ)・香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)・島親益(しま ちかます)の四兄弟です。とくに上の三人——元親・親貞・親泰の力によって、長宗我部氏は最盛期を迎えていきました。
戦国大名の一族では、兄弟の争いが家を傾ける例が少なくありません。しかし長宗我部の兄弟は違いました。長男・元親を中心に、弟たちがそれぞれの持ち場でよく働き、一族の勢力拡大を分担して支えたのです。この「兄弟の結束」こそが、長宗我部飛躍の原動力でした。
長男・元親——四国の覇者
長男の長宗我部元親(1539年生まれ)は、若い頃は色白でおとなしく「姫若子(ひめわこ)」とあだ名されましたが、初陣で目覚ましい働きを見せて以降は「鬼若子(おにわこ)」と呼ばれるほどの武将へと変貌します。彼は土佐を平定すると、阿波・讃岐・伊予へと兵を進め、1585年頃には四国のほぼ全域を制圧するにいたりました。
その快進撃を、前線と後方の両面で支えたのが弟たちでした。元親は自ら四国統一の総指揮を執りながら、弟たちに各方面の攻略や外交を任せることで、一族の力を最大限に引き出したのです。
次弟・吉良親貞——兄の右腕
二番目の弟・吉良親貞(1541年生まれ)は、土佐の名族・吉良氏の名跡を継ぎ、兄・元親の片腕として各地を転戦しました。とくに土佐国西部の制圧を担い、長宗我部の版図拡大の一翼を確実に担ったと伝えられます。
武勇にすぐれ、兄からの信頼も厚かった親貞でしたが、1576年、志なかばで病により世を去りました。まだ三十代半ばの若さでした。四国統一を目前にした一族にとって、有能な弟の早すぎる死は大きな痛手だったにちがいありません。
三弟・香宗我部親泰——外交と軍事の要
三番目の弟・香宗我部親泰(1543年生まれ)は、東土佐の名族・香宗我部氏へ養子に入って家督を継ぎました。彼は土佐国東部の制圧を任される一方、長宗我部の外交を一手に引き受けた、まさに一族の要というべき存在でした。
とりわけ、中央で急成長する織田信長との交渉は親泰の担当でした。その縁で、元親の嫡男が信長から「信」の一字を賜って信親(のぶちか)と名乗るなど、外交の成果は一族に大きな利益をもたらしています。冒頭のイラストで親泰が手にする文箱は、そんな「交渉役・親泰」を象徴するものといえるでしょう。のちに親泰は、豊臣政権下での朝鮮出兵に従い、1593年、渡海先で病没しました。
末弟・島親益
四番目の弟・島親益は、島氏を称して一族の一翼を担いましたが、若くして世を去ったと伝えられ、その事績は多くを残していません。それでも、兄たちとともに長宗我部の初期の躍進を支えた一人であったことは間違いないでしょう。
兄弟で挑んだ四国統一、そして秀吉の四国攻め
元親を頂点に、親貞が西を、親泰が東と外交を——という兄弟の分担によって、長宗我部氏は四国統一へと駆け上がりました。しかし、その悲願が達成されようとしたまさにその時、天下人・豊臣秀吉の大軍が四国へと押し寄せます。
1585年の四国攻めで、総大将・豊臣秀長の率いる圧倒的な兵力の前に、元親はついに降伏。四国のほぼ全土を失い、土佐一国のみを安堵される結果となりました。兄弟で築き上げた四国の覇業は、ここに幕を下ろします。それでも、土佐の小豪族から四国の覇者へと駆け上がった長宗我部兄弟の物語は、戦国史のなかでもひときわ鮮やかな輝きを放っています。(秀吉方から見た四国攻めの経緯は、「四国攻めをわかりやすく解説」でくわしく紹介しています。)
各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

