つつい じゅんけい
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 筒井氏 |
| 大名家 | 筒井氏 |
| 家紋 | 丸に抱き三つ柏 |
| 主武器 | 太刀・数珠 |
| 衣装・甲冑 | 洗練具足 |
| 武将タイプ | 洞ヶ峠・機知 |
大和の戦国大名。「洞ヶ峠」の故事で知られ、織田信長・豊臣秀吉の狭間で巧みに大和一国を治めた知将。
- 天文18年(1549年)生まれ。父・順昭の病死で2歳で家督を継いだ大和の国人。永禄9年(1566年)に出家して順慶と名乗った
- 松永久秀と大和をめぐって長く争い、明智光秀の取り次ぎで信長に臣従。天正5年(1577年)に松永父子を滅ぼし、大和一国を治めた
- 本能寺の変では光秀の誘いに応じず秀吉についた。「洞ヶ峠で日和見した」話は後世の俗説とされる。天正12年(1584年)、36歳で没
大和の戦国大名・筒井順慶
筒井順慶(つつい じゅんけい)は、大和国(現在の奈良県)の戦国大名です。興福寺と結ぶ有力な国人・筒井氏の出身で、幾多の苦難を乗り越えて大和一国を治めた知将として知られます。
松永久秀との争い
筒井順慶の前半生は、大和をめぐる松永久秀との激しい抗争に彩られました。一時は本拠の筒井城を奪われて没落しますが、粘り強く再起を図り、織田信長に接近することで、ついに松永久秀を破って大和一国を手中に収めます。
「洞ヶ峠」の故事
天正10年(1582年)の本能寺の変ののち、明智光秀と羽柴秀吉が争った山崎の戦いで、筒井順慶はどちらに味方するか去就に迷ったと伝えられます。ここから、日和見・形勢観望を意味する「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」という故事成語が生まれました(史実とは異なるとの説もあります)。
大和を治めた知将
筒井順慶は、織田信長・豊臣秀吉という天下人の狭間にあって、巧みな立ち回りによって大和一国の支配を保ちました。筒井順慶の生涯は、松永久秀との死闘を制し、天下人のはざまで大和を治めた、機知に富む戦国大名の姿を——「洞ヶ峠」の故事とともに——今に伝えています。
松永久秀との死闘
順慶の前半生は、大和に攻め込んだ松永久秀との戦いの連続だった。永禄2年(1559年)に本拠の筒井城を失い、永禄10年(1567年)には東大寺大仏殿の戦いが起きる。元亀2年(1571年)の辰市城の戦いで久秀に大勝すると、明智光秀の取り次ぎで織田信長に従った。
天正4年(1576年)に大和の支配を任され、天正5年(1577年)には信貴山城の攻撃に加わって松永父子を滅ぼした。天正8年(1580年)、順慶は郡山城に移り、大和一国の大名となる。のちに豊臣秀長が入る郡山城の歴史は、ここから始まっている(「戦国時代の大和は誰のものだったのか」参照)。
「洞ヶ峠」の本当の姿
天正10年(1582年)の本能寺の変のあと、光秀は縁戚で与力でもあった順慶に味方を求めた。順慶は兵を動かさずに様子を見続け、山崎の戦いの直前に秀吉への誓紙を出して、光秀には加わらなかった。
「順慶が洞ヶ峠に陣取って、どちらが勝つか見極めた」という話から「洞ヶ峠を決め込む(日和見をする)」という言葉が生まれたが、辞典類はこれを後世の俗説としている。実際に洞ヶ峠に陣を敷いたのは光秀の側で、順慶の加勢を待っていたとされる(「山崎の戦い」参照)。
茶の湯と早すぎる死
順慶は茶の湯や能にも通じた文化人で、名物の井戸茶碗「筒井筒」を持っていたことで知られる。しかし天正12年(1584年)、36歳の若さで病没した。跡は養子の筒井定次が継いだが、翌年には伊賀へ移され、大和は秀長の国となる。
筒井順慶をめぐる人物
ゆかりの地
- 筒井順慶歴史公園(奈良県大和郡山市):順慶の墓所。五輪塔とそれを覆う堂は国の重要文化財
- 筒井城跡(奈良県大和郡山市):筒井氏のもとの本拠
- 郡山城跡(奈良県大和郡山市):天正8年(1580年)に順慶が入った城。のち秀長の居城となる
- 洞ヶ峠(京都府八幡市・大阪府枚方市の境):「洞ヶ峠を決め込む」の言葉の舞台
この人物をもっと知る本
- 【評伝】金松誠『筒井順慶』(戎光祥出版・シリーズ実像に迫る):洞ヶ峠の通説も検証しながら、順慶の実像をコンパクトにたどる
- 【人物事典】柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田編』(戎光祥出版):信長の家臣としての順慶の章を収録
- 【小説】筒井康隆『筒井順慶』(新潮文庫):作家が「先祖」の順慶を書くという仕掛けのユーモア小説























