別所安治 | 播磨三木城主、別所長治の父

別所安治のイラスト(イメージ)

べっしょ やすはる

地域近畿
所属勢力・属性別所家(三好氏に従い、のち織田方)
大名家別所家
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ国衆の当主

別所安治は、播磨の三木城を本拠とした別所家の当主である。三好氏の傘下から織田信長方へと立場を変え、東播磨の別所家を率いた。三木合戦で知られる別所長治の父にあたる。

目次

別所氏と三木城

別所氏は、播磨の守護・赤松氏の一族である。長治の曾祖父にあたる則治のころから三木城を本拠とし、東播磨に勢力を広げた。

安治の父・就治は、別所氏を戦国大名へと押し上げた人物とされる。享禄3年(1530)には浦上村宗に攻められ、三木城が一時落ちたこともあったが、翌年に取り戻したという。

三好氏から織田信長へ

安治は就治の子で、長勝とも名乗った。生年は天文元年(1532)とも、大永3年(1523)ごろともいわれ、はっきりしない。

天文23年(1554)ごろ、就治は畿内の実力者・三好長慶に攻められ、和睦してその傘下に入ったとされる。安治は弘治2年(1556)ごろに家を継いだという。

永禄11年(1568)、足利義昭と織田信長が京に入った。別所氏はこのとき兵を出し、義昭からほめられたという。翌永禄12年(1569)、三好方が京の本圀寺にいた義昭を襲った。このとき安治は弟の重棟(重宗)を救援に送り、信長から賞されたと伝わる。

早すぎる死と三木合戦

元亀元年(1570)、安治は病で亡くなった。家を継いだ長男の長治は、まだ13歳ほどの少年であった。そのため、安治の弟の吉親(賀相)や重宗らが長治を支えたとされる。安治には長治のほか、友之・治定などの子がいた。

天正6年(1578)、長治は信長方の羽柴秀吉にそむき、三木城に立てこもった。長い籠城の末、天正8年(1580)に城の食糧が尽き、長治は家臣の助命を願って自害した。こうして三木城の別所本家は滅んだ。

生き残った別所家

一方、安治の弟・重宗は秀吉方についた。重宗の家は豊臣政権のもとで大名となり、江戸時代のはじめには但馬八木藩の藩主となった。

その後、重宗の子孫は旗本として続いたという。安治の直系は三木合戦で絶えたが、別所の名は弟の家によって江戸時代に伝えられたのである。

ゆかりの地

  • 三木城跡(兵庫県三木市上の丸町):別所氏代々の本拠。のちの三木合戦の舞台

参考にした資料

別所安治とは

別所安治は、播磨の三木城を本拠とした別所家の当主です。別所長治の父にあたります。

三木城

三木城は、播磨の東部にあった城で、別所家の本拠でした。

三好家から信長へ

安治は、はじめ三好家と結び、のちに織田信長に近づいたとされます。

早い死

安治は若くして亡くなり、子の長治が幼くして家を継ぎました。叔父の吉親らが、長治を支えました。

評価

安治は、東播磨の名門・別所家を率いた当主です。その早い死は、のちの三木合戦へとつながる家の行く末に影響しました。

このイラストについて

このイラストは、城を背に座る安治を描いています。

金色の羽織と落ち着いた表情で、播磨の名門を率いた当主の風格を表しました。

山の上の城と町は、別所家の本拠・三木城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

別所家

播磨の守護・赤松氏の一族で、東播磨の三木城を本拠とした家。別所長治の代に織田信長に従ったが、1578年に毛利方へ寝返った。

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家臣団

別所重宗のイラスト(イメージ)淡河定範神吉頼定のイラスト(イメージ)
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