奈良盆地を中心とする大和国は、戦国時代、実に目まぐるしく支配者が入れ替わった国である。「もともとは三好長慶の領地だったのか」「畠山氏の国だったのか」と聞かれることがあるが、実はどちらでもない。大和には長いあいだ、ふつうの意味での守護大名がいなかった。本記事では、寺社と国人の国だった大和が、松永久秀、織田家の家臣たち、筒井順慶を経て、豊臣秀長の国になるまでの流れを追っていく。剣豪・柳生一族のふるさと「柳生の里」の武士たちが、この激動をどう生きたかにも触れたい。
守護のいない国 ― 興福寺と「大和四家」
鎌倉・室町時代を通じて、大和では奈良の大寺院・興福寺が事実上の守護の役割を担った。幕府は大和に守護を置かず、国の支配は興福寺とその配下の武士たちに委ねられていたのである。
興福寺の配下にあった在地の武士(衆徒・国民)のなかから、やがて有力な家が台頭する。筒井氏・越智氏・箸尾氏・十市氏の四家で、「大和四家」とも呼ばれる。なかでも筒井氏と越智氏は長く対立し、大和の戦国時代は、こうした国人どうしの争いから始まった。
畠山氏・木沢長政の進出
隣国・河内の守護である畠山氏は、この国人の争いにたびたび介入した。天文年間(1530年代)には、畠山氏の被官から身を起こした木沢長政が勢力を伸ばし、大和と河内の境にそびえる信貴山に城を築いて大和に進出する。しかし長政は天文十一年(1542)の太平寺の戦いで敗死し、大和を支配するには至らなかった。畠山氏の影響力はあっても、大和が畠山氏の領国になったことはないのである。
松永久秀の大和侵攻 ― 外部勢力による支配の始まり
大和の情勢を一変させたのが、三好長慶の重臣・松永久秀であった。永禄二年(1559)八月、久秀は大和へ攻め込み、わずか一日で筒井氏の本拠・筒井城を落とす。久秀は木沢長政ゆかりの信貴山城を修築して拠点とし、永禄五年(1562)には奈良を見下ろす地に多聞山城を築いた。天守の先駆けともいわれる櫓を備えたこの城は、当時の宣教師も驚くほどの壮麗さであったという。
ただし、ここで大和が「三好長慶の領地」になったと考えるのは正確ではない。大和を切り取ったのはあくまで久秀であり、久秀は三好家の家臣でありながら、大和ではほぼ独立した支配者としてふるまった。長慶の死後、久秀は三好三人衆と激しく対立し、永禄十年(1567)の戦いのさなかに東大寺大仏殿が焼失している。
筒井順慶との長い抗争
本拠を追われた筒井氏の若き当主・順慶は、その後も大和の国人を率いて久秀に抵抗し続けた。筒井城は奪ったり奪われたりを繰り返し、大和は十年以上にわたって久秀と順慶の争いの舞台となる。
永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、いち早く信長に通じた久秀は大和一国の支配を認められた。一方の順慶も、元亀二年(1571)に明智光秀の仲介で信長に臣従する。やがて久秀が信長に背いて天正元年(1573)末に多聞山城を差し出して降伏すると、大和の主導権は大きく揺らぎ始めた。
「大和守護」原田(塙)直政と明智光秀
天正三年(1575)三月、信長は重臣の塙直政(のちに原田姓を賜る)を大和守護に任じ、多聞山城に入れた。長く守護のいなかった大和に、はじめて織田家の直臣が「守護」として乗り込んだのである。しかし直政は翌天正四年(1576)五月、石山本願寺との戦いで討死してしまう。
直政の死後、信長は同年五月、明智光秀らを使者として「大和一国は筒井順慶に任せる」と伝えた。ここから順慶は光秀の与力(指揮下の武将)として大和を治めることになる。光秀自身が大和の国主になったわけではないが、大和の支配は光秀の監督のもとに置かれた、と理解するとわかりやすい。天正五年(1577)には信長に再び背いた久秀が信貴山城で自害し、大和をめぐる二人の争いにようやく決着がついた。
順慶の大和支配 ― 指出と一国破城
天正八年(1580)、信長は大和の寺社や国人に土地の申告(指出)を命じ、郡山城を除く国内の城をことごとく破却させた。順慶は筒井城から郡山城へ拠点を移し、名実ともに大和一国の大名となる。寺社と国人が割拠した中世の大和は、ここで大きく姿を変えた。
天正十年(1582)の本能寺の変では、順慶は与力として仕えた光秀と、台頭する羽柴秀吉とのあいだで難しい判断を迫られた。消極的に光秀に協力するそぶりを見せたものの、最終的には秀吉への恭順を選んでいる。「洞ヶ峠を決め込む」という言葉のもとになった逸話は、このときの順慶の去就から生まれた(実際に洞ヶ峠に布陣したのは光秀のほうであったとされる)。
筒井家の伊賀移封と、秀長の入国
順慶は天正十二年(1584)八月、三十六歳で病没し、養子の定次が跡を継いだ。そして翌天正十三年(1585)閏八月、定次は伊賀上野二十万石へ移されることになる。長く大和に根を張った筒井氏は、こうして故郷を離れた。
代わって大和郡山城に入ったのが、秀吉の弟・豊臣秀長である。秀長は大和・紀伊・和泉にまたがる大領を与えられ、「大和大納言」と呼ばれた。寺社勢力の強い大和を、天下人の最も信頼する身内が直接治める体制がここに整ったのである。


柳生の里の武士たちは、どう生き抜いたか
奈良の東の山あい、柳生の里(現在の奈良市柳生町)も大和国の一部である。この地を治めた柳生氏も、大和の激動に翻弄された国人の一人であった。
柳生宗厳(のちの石舟斎)は、はじめ筒井氏に仕えたが、永禄二年(1559)に久秀が大和へ侵攻すると久秀方に転じた。元亀二年(1571)には久秀の指揮のもと、順慶の守る辰市城を攻めて大敗を喫している。主家を替えながら生き残りを図るのは、この時代の大和の国人にとってごく当たり前の選択であった。
しかし秀長が大和の支配者となると、在地の武士は伊賀へ移るか、刀を置いて農民となるかの選択を迫られた。柳生家も所領を失ったと伝わる。転機が訪れたのは文禄三年(1594)、宗厳が徳川家康の前で「無刀取り」を披露したことであった。これをきっかけに息子の宗矩が家康に仕え、柳生家はやがて将軍家の剣術師範、さらには大名へと上り詰めていく。大和の国人の小さな家が、戦国の荒波をくぐり抜けて江戸の名門となった例である。
まとめ ― 大和の支配者の移り変わり
- 室町〜戦国初期:守護は置かれず、興福寺が実質的に支配。筒井・越智など国人が争う。
- 1530年代:畠山氏の被官・木沢長政が信貴山に進出(1542年に敗死)。
- 1559年〜:三好家臣・松永久秀が侵攻。信貴山城・多聞山城を拠点に支配し、筒井順慶と抗争。
- 1575年:信長が塙(原田)直政を大和守護に任命。
- 1576年:直政の討死後、筒井順慶が大和一国を任される(明智光秀の与力として)。
- 1577年:久秀が信貴山城で自害。
- 1580年:指出と一国破城。順慶が郡山城へ。
- 1585年:筒井定次が伊賀上野へ移封。豊臣秀長が大和郡山に入る。
こうして見ると、大和は「誰か一人の大名の国」だった期間がきわめて短い。寺社と国人の国から、外から来た実力者たちの争奪の舞台を経て、最後に天下人の弟の国となった――その変化そのものが、戦国時代という時代の縮図だったといえるだろう。
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