狩野永徳 | 信長・秀吉に仕えた天下一の絵師。安土城・大坂城・聚楽第の障壁画と「洛中洛外図屏風」「唐獅子図屏風」

狩野永徳

かのう えいとく

地域近畿(京都)
所属勢力・属性狩野派の絵師。織田信長・豊臣秀吉の御用絵師
大名家狩野家(絵師の家)
家紋不明
主武器絵筆
衣装・甲冑小袖に肩衣
武将タイプ天下一の絵師・桃山の巨匠

狩野永徳(かのう えいとく)は、安土桃山時代を代表する絵師です。織田信長と豊臣秀吉に仕え、安土城・大坂城・聚楽第といった天下人の城を、金地に大きな松や獅子を描いた豪華な障壁画で飾りました。国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」や「唐獅子図屏風」の作者として知られます。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では片岡鶴太郎さんが演じています。

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目次

狩野永徳の生涯 年表

年できごと
天文12年(1543)京都で、狩野松栄(直信)の長男として生まれる。祖父は狩野元信
少年期祖父・元信から絵の手ほどきを受ける
永禄9年(1566)父とともに大徳寺聚光院の障壁画を描く(「花鳥図」などは国宝)
天正2年(1574)信長が上杉謙信に「洛中洛外図屏風」を贈ったと伝わる
天正4年(1576)〜信長の命で、安土城の障壁画を描く
天正10年(1582)本能寺の変。安土城が焼け、障壁画も失われる
天正11年(1583)〜秀吉の大坂城の障壁画を手がける
天正14年(1586)〜聚楽第の障壁画を手がける
天正18年(1590)東福寺法堂の天井画などを制作中に倒れる。9月14日、48歳で亡くなる

狩野派の三代目 ― 祖父・元信に鍛えられた天才

永徳は天文12年(1543)、京都に生まれました。名は州信(くにのぶ)、通称は源四郎といいます。父は狩野松栄(直信)、祖父は狩野派の基礎を固めた狩野元信です。狩野派は、室町幕府の御用絵師だった狩野正信に始まる絵師の一門で、こののち江戸時代の終わりまで、およそ400年にわたって日本の画壇の中心にあり続けました。

永徳は幼いころから祖父・元信の手ほどきを受け、若くして才能を現しました。永禄9年(1566)、24歳の永徳は父とともに京都・大徳寺聚光院の障壁画を手がけます。このうち「花鳥図」「琴棋書画図」は、現在は国宝に指定されています。

信長と永徳 ― 洛中洛外図と安土城

永徳の名を今に伝える代表作が、国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」です。京の町と郊外の人々の暮らしを、金雲の間に細かく描き込んだ屏風で、天正2年(1574)に織田信長から越後の上杉謙信に贈られたと伝えられます。今は山形県の米沢市上杉博物館に所蔵されています。

天正4年(1576)、信長は近江に安土城を築きはじめます。永徳は一門の絵師たちを率いて、その天主や御殿の障壁画を描きました。金箔を貼った壁や襖に、力強い筆づかいで大きな松や花鳥、中国の故事などを描いた豪華な部屋は、見る人を圧倒したと伝えられます。しかし天正10年(1582)、本能寺の変のあとの混乱で安土城は焼け落ち、永徳の障壁画もすべて失われました。

秀吉に仕える ― 大坂城と聚楽第

信長の死後、永徳は天下人となった秀吉に仕えました。天正11年(1583)からは大坂城、天正14年(1586)ごろからは京都の聚楽第の障壁画を手がけます。秀吉の城はどれも巨大で、永徳は休む間もなく筆をふるいました。細かく描き込む画風から、大きな画面に大胆に描く「大画(たいが)」の画風へと移っていったのも、こうした大仕事に追われたためと考えられています。宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する「唐獅子図屏風」(国宝)は、その力強い画風をよく伝える作品です(唐獅子図屏風とは)。

過労の果てに ― 最期

天正18年(1590)、永徳は東福寺法堂の天井画などを描いている最中に病に倒れ、9月14日に亡くなりました。48歳でした。大仕事が続いたことによる過労が原因ともいわれます。同じころ、能登出身の絵師・長谷川等伯が力をつけ、御所の障壁画の仕事をめぐって狩野派と競い合っていました。永徳の死後、狩野派は子の光信や弟子の狩野山楽らが支え、のちに江戸幕府の御用絵師として続いていきます。

永徳が手がけた城の障壁画は、城とともにほとんど失われてしまいました。そのため、永徳の作品として確かなものは、今ではごくわずかしか残っていません。くわしくは狩野永徳とは ― 信長・秀吉に仕えた天下一の絵師や永徳のライバルと弟子たちもあわせてどうぞ。

評価

永徳は、天下人の権力と富を、金と墨の大画面で目に見える形にした絵師でした。その豪快で華やかな画風は「桃山様式」とも呼ばれ、安土桃山時代の美術を代表するものとなりました。作品の多くは戦乱で失われましたが、残されたわずかな作品からも、天下人たちが永徳を重んじた理由がよくわかります。

ゆかりの地

  • 大徳寺 聚光院(京都市北区):24歳の永徳が父とともに描いた障壁画(国宝)が伝わる
  • 妙覚寺(京都市上京区):狩野家の菩提寺。永徳ら狩野家の墓がある
  • 米沢市上杉博物館(山形県米沢市):国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」を所蔵する
  • 安土城跡(滋賀県近江八幡市):永徳が障壁画を描いた安土城の跡

このイラストについて

このイラストは、金地に大きな松を描いた障壁画の前で、太い絵筆を手にした狩野永徳を描いています。黒い頭巾と落ち着いた色の装束で、天下人の城を次々と飾った絵師の自信と情熱を表しました。背景の金地の松は、永徳が得意とした豪快な「大画」の障壁画をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

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