永徳のライバルと弟子たち ― 天下人の時代を彩った絵師、長谷川等伯・海北友松・狩野山楽

安土桃山の絵師の工房・金碧障壁画の制作

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第38回のキーパーソンは、狩野永徳。信長や秀吉に仕え、安土城や大坂城、聚楽第の障壁画を描いた「天下一の絵師」である。だが、天下人の時代を彩ったのは永徳一人ではない。永徳という大きな壁に挑んだライバルや、その技を継いだ弟子たちがいた。ここでは、長谷川等伯・海北友松・狩野山楽という三人の絵師を通して、桃山文化を支えた絵師たちの群像を見ていく。

目次

天下人の時代は、絵師たちの黄金時代だった

織田信長・豊臣秀吉が次々と壮大な城を築いた安土桃山の時代は、絵師にとっても大きな好機であった。城や寺の広い襖や屏風を、金箔を背景にした豪華な絵で埋めつくす金碧障壁画が求められ、腕のある絵師は天下人から直々に仕事を任された。大画面にふさわしい雄大な画風が、この時代に一気に花開いたのである。

狩野永徳という、巨大な壁

その頂点に立ったのが狩野永徳であった。狩野派を率い、信長の安土城、秀吉の大坂城や聚楽第といった最重要の仕事を一手に引き受け、他の絵師が割り込む余地はほとんどなかった。あまりに多くの大仕事を抱えた永徳は、過労のうちに四十八歳で急死したとも伝わる。それほど、彼は時代の中心に立つ絵師だった。

長谷川等伯 ― 能登から来たライバル

その永徳に真っ向から挑んだのが、能登の七尾(今の石川県)出身の長谷川等伯である。地方から都に出て腕一本でのし上がった等伯は、やがて秀吉周辺の大きな仕事を狙うまでになり、狩野派にとって最大の脅威となった。出自や後ろ盾に恵まれない者が、実力で画壇の頂点に迫っていく姿は、天下人の時代らしい下剋上でもあった。

対屋事件、そして永徳の急死

天正十八年(一五九〇)、秀吉ゆかりの御殿の障壁画をめぐって、等伯が受けかけた仕事を狩野派が巻き返すという出来事があったと伝わる。いったんは退けられた等伯だったが、その直後に永徳が急死する。空いた大仕事の座をつかんだ等伯は、祥雲寺(のちの智積院)の障壁画で見事に大成を果たした。

松林図屏風 ― 水墨画の到達点

等伯の名を不朽にしたのが、国宝『松林図屏風』である。金箔の豪華さとは対極の、墨の濃淡だけで霧の中の松林を描いたこの作品は、日本水墨画の最高傑作とされる。きらびやかな金碧障壁画の時代に、あえて余白と静けさで勝負した等伯の懐の深さがうかがえる。

海北友松 ― 浅井の遺臣から絵師へ

もう一人、桃山を代表する絵師が海北友松である。彼はもともと浅井長政に仕えた近江の武士の家に生まれた。主家の滅亡で武士としての道を断たれた友松は、絵師として身を立て、六十歳を過ぎてから大輪の花を咲かせた。建仁寺に残る雄渾な『雲龍図』は、武人の気迫をそのまま筆に込めたような迫力で知られる。

斎藤利三の遺骸を奪い返した男

友松には、絵師らしからぬ逸話が伝わる。本能寺の変のあと、親友であった明智光秀の重臣斎藤利三が処刑されると、友松はその遺骸を奪い返して手厚く葬ったというのである。義のためには危険もいとわない、まさに元武士の絵師にふさわしい逸話として語り継がれている。

狩野山楽 ― 永徳が見込んだ後継者

永徳のライバルばかりではない。その技を受け継いだ弟子もいた。狩野山楽は、やはり近江の浅井家に仕えた武士の子で、秀吉の推挙によって永徳の門下に入ったと伝わる。永徳の画風を忠実に受け継ぎ、のちに京に残った一門「京狩野」の祖となった。血のつながらない弟子が、師の流れを後世へとつないだのである。

浅井ゆかりの絵師たち

興味深いことに、海北友松も狩野山楽も、ともに近江の浅井家に縁のある武士の家の出であった。戦乱で主家を失った武士が、刀を筆に持ちかえて芸術の世界で名を成す。天下人の時代は、合戦だけでなく、こうした人生の転身をも生み出した時代だったのである。

まとめ ― 永徳一強ではなかった画壇

狩野永徳は確かに時代の頂点に立つ絵師であった。しかし、その周りには、真っ向から挑んだ長谷川等伯、武人から転じた海北友松、技を継いだ狩野山楽といった個性豊かな絵師たちがいた。彼らが競い合ったからこそ、桃山文化の絵画はこれほど豊かに花開いた。永徳という巨星の輝きは、周囲の星々があってこそ、いっそう際立つのである。

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