しまい そうしつ
| 地域 | 九州(筑前・博多) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 博多の商人 |
| 大名家 | 島井家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 僧形・道服 |
| 武将タイプ | 豪商・茶人 |
島井宗室(しまい そうしつ)は、博多の豪商・茶人である。天文8年(1539)ごろの生まれとされるが、生年ははっきりしない。酒屋と金融業を営み、朝鮮や上方との交易で富を築いた。神屋宗湛・大賀宗九とともに「博多三傑」と呼ばれ、天下の名物「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」の持ち主としても知られる。豊臣秀吉の九州平定のあとは博多の復興に力を尽くし、晩年には子孫に17か条の遺訓を残して、元和元年(1615)に亡くなった。
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酒屋と金貸しで富を築く
島井家は博多で酒屋を営み、質屋・金融業も兼ねていた。宗室は大友宗麟や筑紫広門など九州の大名に金銀を貸し付け、対馬を経由した朝鮮との交易にもかかわった。
戦国大名にとって、戦の費用を用立ててくれる博多の豪商は欠かせない存在だった。宗室は商人でありながら、大名たちと対等に近い関係を結んでいた。武力ではなく財力で戦国の九州を動かした一人といえる。
名物「楢柴肩衝」と天下三肩衝
宗室は、唐物(中国渡来)の名物茶入「楢柴肩衝」を持っていた。楢柴は「初花」「新田」と並ぶ天下三肩衝の一つに数えられる名品である。織田信長もこの茶入に関心を寄せていたといわれ、天正10年(1582)、宗室は神屋宗湛とともに上洛し、本能寺の変に居合わせたと伝わる。
その後、楢柴は筑前の秋月種実の手に渡った。宗室から譲り受けたとも、半ば強いて取り上げたともいわれ、経緯ははっきりしない。天正15年(1587)、秀吉の九州平定で降伏した種実は、楢柴を秀吉に差し出して許しを請うたとされる。こうして秀吉は三つの肩衝をすべて手にした。博多の商人が持っていた一つの茶入が、九州の大名の降伏の証となり、天下人の権威を飾ることになったのである。
太閤町割 — 焼け野原の博多を立て直す
博多は戦国時代の争いのなかでたびたび焼かれ、九州平定のころには荒れ果てていた。天正15年6月、九州から引き揚げる途中に筥崎(はこざき)に陣を置いた秀吉は博多の再興を命じ、町を碁盤の目に区画し直す「太閤町割」が行われた。宗室は宗湛らとともにこの復興に力を尽くし、秀吉から屋敷を与えられ、町の役を免じられたという。
筥崎の陣では秀吉の茶会が開かれ、博多の茶人たちも招かれたことが『宗湛日記』に記されている。この4か月後、秀吉は京都で北野大茶湯を開く。九州の平定と博多の茶会は、大茶湯へとつながる天正15年の大きな流れの一部だった。
朝鮮出兵に反対した豪商
朝鮮との交易で生きてきた宗室にとって、秀吉の朝鮮出兵は商いの土台を壊すものだった。宗室は対馬の宗義智や小西行長とともに、戦を避けるための交渉にかかわったとされ、出兵に反対して秀吉の不興を買ったとも伝わる。
一方で、出兵が始まると兵糧米の調達などにかかわったとする見方もある。辞典によって描き方が分かれるのは、商人として戦に反対しながらも、天下人の命令には従わざるをえなかった宗室の立場をよく表している。
黒田家の博多と「宗室遺訓」
関ヶ原の戦いのあと筑前に入った黒田長政が福岡城を築くと、宗室は資金を献じて協力したとされる。
慶長15年(1610)ごろ(16年とする説もある)、宗室は養嗣子に17か条の遺訓を書き与えた。生涯にわたって正直で律儀であること、倹約を心がけること、家業に励むことなどを説いたもので、江戸時代はじめの豪商の考え方を伝える史料として知られている。宗室は元和元年(1615)8月24日に亡くなった。
『豊臣兄弟!』の時代と島井宗室
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀長が総大将をつとめた九州平定ののち、第42回で北野大茶湯が描かれる。九州で戦が終わり、博多の町が立て直され、楢柴が秀吉のもとへ届いた天正15年は、宗室にとっても大きな転機の年だった。
関わりの深い人物
ゆかりの地
- 博多(福岡市博多区):宗室が商いを営み、「太閤町割」で復興を支えた町
- 筥崎宮(福岡市東区):九州平定ののち秀吉が陣を置き、茶会を開いた地


神屋宗湛
秋月種実
豊臣秀吉
大友宗麟
宗義智
小西行長
黒田長政








































