韮山城の戦いをわかりやすく解説|北条氏規はなぜ3か月も持ちこたえたのか ― 早雲の城、4万の大軍、家康の説得と開城【豊臣兄弟!第47回】

韮山城を囲む豊臣方の大軍(イメージ)

天正18年(1590)3月29日、小田原の北条家を攻めるために東海道を進んだ豊臣秀吉の大軍は、箱根の山中城と、伊豆の韮山城を同じ日に攻めました。山中城はその日のうちに落ちましたが、韮山城は落ちませんでした。城を守る北条氏規は、約3,600の兵で4万をこえる大軍を相手に、およそ3か月にわたって持ちこたえます。最後は旧知の徳川家康の説得に応じて城を開き、この決断がのちに北条家の血筋を残すことにつながりました。韮山城の戦いを、登場する武将と戦いの流れから、わかりやすく解説します。

先に答え

韮山城の戦いは、秀吉の小田原征伐で、織田信雄を大将とする約4万4千の豊臣方が、北条氏規の守る伊豆の韮山城を囲んだ戦いです(天正18年3月29日〜6月24日)。城兵は約3,600と、攻め手の10分の1にも足りませんでしたが、最初の総攻めをはね返し、秀吉は力攻めをやめて付城を築いて城を囲み続けました。

ほかの北条方の城が次々に落ちるなか、韮山城は小田原城よりも前に城を開くまで、約3か月持ちこたえました。開城をすすめたのは、少年時代に駿府で同じ人質の身だった家康と伝わります。氏規は命を許され、その子孫は河内狭山藩の大名として明治まで続きました。

韮山城の戦いの基本データ

いつ 天正18年(1590)3月29日〜6月24日(約3か月)
どこ 伊豆国の韮山城(いまの静岡県伊豆の国市韮山)
対立 北条氏規の城兵 × 織田信雄を大将とする豊臣方(福島正則・蜂須賀家政・細川忠興・蒲生氏郷ら)
兵力 城兵 約3,600、豊臣方 約44,000(いずれも通説)
結果 6月24日、家康の説得で氏規が城を開く。力攻めでは落ちなかった
この後 7月に小田原城が開城し、北条家は滅びる。氏規は許され、のちに河内に所領を与えられる。子孫は狭山藩1万石の大名として続く
韮山城を囲む豊臣方の大軍(イメージ)
土塁と空堀で守られた韮山城と、付城を築いて囲む豊臣方の大軍(イメージ)

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目次

韮山城の戦いの年表

年月日 おもな出来事
明応2年(1493)ごろ 伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に攻めこみ、韮山城を伊豆支配の拠点とする
永正16年(1519) 早雲が韮山城で亡くなる。こののち北条家の本拠は小田原城となり、韮山城は伊豆を押さえる支城となる
天正16年(1588)8月 北条氏規が北条家の使者として上洛し、聚楽第で秀吉と対面する
天正17年(1589)10月 北条方が真田の名胡桃城を奪う(名胡桃城事件)。秀吉は北条攻めを決める
天正18年(1590)3月1日 秀吉が京都を出て、小田原へ向かう
天正18年3月29日 山中城と韮山城が同じ日に攻められる。山中城は半日で落ちるが、韮山城は総攻めをはね返す
天正18年4月 秀吉が小田原城を囲む。韮山城のまわりには付城が築かれ、長い包囲が始まる
天正18年6月23日 八王子城が1日で落ちる
天正18年6月24日 韮山城が開城。氏規は家康の説得に応じて城を出る
天正18年7月5日 北条氏直が降り、小田原城が開城
天正18年7月11日 北条氏政・氏照が切腹。氏規が介錯をつとめたと伝わる
天正19年(1591)以降 氏規は許されて河内に所領を与えられる。子の氏盛が狭山藩をおこす

なぜ韮山城が攻められたのか ― 北条家の始まりの城と、秀吉と会った男

韮山城は、北条家の歴史そのものが始まった城です。明応2年(1493)ごろ、伊勢宗瑞(のちの北条早雲)は伊豆の堀越公方を攻めて伊豆を手に入れ、韮山を拠点にしました。早雲は相模の小田原城を手に入れたあとも韮山城で暮らし、永正16年(1519)に亡くなったのも韮山城でした。その後、北条家の本拠は小田原に移りますが、韮山城は伊豆を押さえ、西からの敵を防ぐ大切な城であり続けます。

秀吉との対立が深まると、北条家は韮山城を北条氏規に任せ、守りを固めました。氏規は北条氏康の子で、当主・氏政の弟にあたります。少年のころ今川家の人質として駿府で過ごし、同じく駿府にいた若き日の家康とは顔見知りだったといわれます。天正16年には北条家の代表として上洛し、聚楽第で秀吉と対面しました。北条家のなかで、豊臣の力を自分の目で見ていた数少ない人物です。

秀吉の側から見れば、東海道を進んで小田原へ向かう大軍にとって、箱根の山中城と伊豆の韮山城はどちらも通り道の脇にある邪魔な城でした。秀吉は軍を分け、甥の豊臣秀次に山中城を、織田信雄に韮山城を攻めさせました。

立場 考え
北条氏規 秀吉の力はよくわかっている。それでも北条家の一員として、始まりの城である韮山城を守る
北条家(氏政・氏直) 箱根と伊豆の城で豊臣の大軍を食い止め、小田原城で長くこもれば、相手は引き上げるはず
豊臣秀吉 小田原へ向かう道をあけるため、山中城と韮山城を同時に攻める。落ちない城は囲んでおけばよい

兵力くらべ ― 3,600で4万4千を防いだ城

韮山城の戦いの兵力(通説)

豊臣方(織田信雄ら)約44,000
韮山城の城兵(北条氏規)約3,600
参考:同じ日の山中城の攻め手(豊臣秀次ら)約67,000
参考:山中城の城兵(松田康長ら)約4,000

城兵と攻め手の差は、韮山城も山中城もおよそ10倍以上です。それでも山中城は半日で落ち、韮山城は約3か月持ちこたえました。小田原征伐全体では、秀吉の軍は20万をこえたといわれます。

韮山城の戦いに登場した主な武将(北条方)

人物 立場 この戦いでの動き
北条氏規 韮山城主。北条氏康の子で、氏政の弟 約3,600の兵で城を守り、最初の総攻めをはね返す。約3か月の籠城ののち、家康の説得で城を開く
北条早雲(伊勢宗瑞) 北条家の初代 この戦いの約100年前に韮山城を拠点とし、ここで亡くなった
北条氏政 北条家の前の当主。実権をにぎる 小田原城にこもる。開城後、切腹
北条氏直 北条家の当主 小田原城にこもり、7月5日に降る。高野山へ送られる

韮山城の戦いに登場した主な武将(豊臣方)

人物 立場 この戦いでの動き
豊臣秀吉 関白。小田原征伐の総大将 山中城と韮山城を同時に攻めさせる。韮山城は力攻めをやめ、付城で囲むよう命じる
織田信雄 信長の子。尾張・伊勢の大名 韮山城攻めの大将をつとめる
福島正則 秀吉子飼いの武将 3月29日の総攻めで先頭に立って攻めかかるが、城を落とせず多くの兵を失ったと伝わる
蜂須賀家政 阿波の大名 韮山城を囲む軍に加わる
細川忠興 丹後の大名 韮山城攻めに加わり、のちに小田原の包囲へ移る
蒲生氏郷 伊勢松ヶ島の大名 韮山城攻めに加わり、のちに小田原の包囲へ移る
徳川家康 駿河・遠江・三河などの大名。北条氏直の妻の父 駿府の人質時代からの縁がある氏規に使者を送り、城を開くよう説いたと伝わる

韮山城の戦いの流れ ― 同じ日に攻められた二つの城

山中城・韮山城・小田原城の位置関係図
山中城・韮山城・小田原城の位置関係(イメージ図)

① 3月29日 ― 山中城と韮山城、同時の攻撃

3月29日、秀吉の大軍は二手に分かれ、箱根の山中城と伊豆の韮山城に同時に攻めかかりました。山中城では豊臣秀次の約6万7千が攻め、一柳直末が討死するほどの激戦の末、城はわずか半日で落ちます。同じ日、韮山城には織田信雄を大将とする約4万4千が押し寄せました。山中城は、堀の底に土の仕切りを残して敵が動きにくくした「障子堀」など、北条氏が工夫をこらした城でしたが、圧倒的な数の前に持ちこたえられませんでした。

山中城跡の障子堀
山中城跡の堀。堀の底を土の仕切りで区切る「障子堀」は北条氏の城の特徴とされる(筆者撮影)
史跡山中城跡の碑
「史跡 山中城跡」の碑(筆者撮影)

② 総攻めをはね返す

韮山城は、龍城山とよばれる細長い丘の上に築かれた城です。高さはそれほどありませんが、尾根に沿って本丸・二の丸・三の丸と曲輪が並び、土塁と堀切で区切られていました。さらに北条方は、城の東の天ヶ岳などにも砦を築き、城と砦が助け合って守れるようにしていました。

豊臣方は城下に火を放ち、福島正則らが城に攻めかかりましたが、城兵の守りは固く、攻め手は多くの兵を失って引き下がります。山中城が半日で落ちたのとは対照的に、韮山城は最初の総攻めを持ちこたえました。

③ 力攻めから「囲む」戦いへ

秀吉は、韮山城を無理に攻め落とすことにこだわりませんでした。城のまわりの丘に付城(攻めるための陣地の城)をいくつも築かせ、堀と柵で城を囲んで、城兵が外に出られないようにしたのです。本立寺や上山田、追越山などに築かれた付城の跡が、いまも韮山のまわりに残っています。蒲生氏郷や細川忠興らは小田原の包囲へ移り、韮山城は少ない兵で囲み続けられることになりました。

④ 孤立していく韮山城

韮山城が持ちこたえているあいだに、関東各地の北条方の城は次々に落ちていきました。鉢形城、八王子城と大きな支城が落ち、小田原城は豊臣の大軍に囲まれたままです。韮山城も、ふもとの曲輪を失うなど、少しずつ追いつめられていきました。それでも城は落ちず、氏規はなお城を守り続けました。

⑤ 家康の説得

家康の使者の書状を読む北条氏規(イメージ)
家康からの書状を読み、開城を考える北条氏規(イメージ)

籠城が3か月近くになったころ、家康は氏規に使者を送りました。「城を開いて、氏政・氏直の命を助けてもらえるよう秀吉に願い出るほうがよい」。家康と氏規は、少年時代に駿府で今川家の人質として暮らした仲だったといわれます。家康は北条氏直の妻の父でもあり、北条家と豊臣家のあいだを取り持つ立場にありました。

⑥ 6月24日 ― 開城

6月24日、氏規は家康のすすめに応じて城を開きました。力では一度も落とされなかった城の、自らの決断による開城でした。秀吉は、以前に聚楽第で対面したことなどもあって氏規を許したといわれます。氏規はこのあと小田原城の兄たちにも降伏をすすめたとされ、7月5日、小田原城も開城しました。

なぜ韮山城は落ちなかったのか

理由 内容
城と砦の守り 丘の尾根に並ぶ曲輪を土塁と堀切で区切り、天ヶ岳などの砦と組み合わせて守った。攻め口がしぼられ、大軍の数が生かしにくかった
城兵の士気 北条家の始まりの城を守るという思いと、氏規のもとでのまとまりがあった
秀吉の方針 秀吉の狙いは小田原城で、韮山城に大きな損害を出してまで攻め落とす必要はなかった。囲んでおけば十分と考え、力攻めを続けなかった
開城の決め手は「説得」 城は戦いで落ちたのではなく、家康の説得と北条家の行く末を考えた氏規の判断で開かれた

韮山城跡のいま

韮山城跡の案内板
「韮山城跡」の案内板(筆者撮影)
韮山城跡の土塁にはさまれた道
土塁にはさまれた城内の道(筆者撮影)
韮山城跡の尾根道
尾根に沿って曲輪をつなぐ道(筆者撮影)
韮山城跡の曲輪へ上る階段
曲輪へ上る階段(筆者撮影)

韮山城跡は、伊豆の国市韮山の町なかにある低い丘の上にあり、城池(じょういけ)とよばれる池のほとりから登ることができます。石垣はなく、土塁と堀切で曲輪を区切った、戦国時代の関東らしい土の城です。近くには世界遺産の韮山反射炉や、源頼朝が流された蛭ヶ小島もあります。

韮山城の戦いのその後

人物・城 その後
北条氏規 兄の氏政・氏照の切腹では介錯をつとめたと伝わる。甥の氏直とともに高野山へ送られるが、翌年許され、河内に約7,000石を与えられる。慶長5年(1600)に大坂で亡くなる
北条氏盛(氏規の子) 氏直の跡も継ぎ、河内狭山藩1万石の大名となる。北条家は狭山藩主として明治維新まで続く
北条氏政・氏照 天正18年7月11日、小田原で切腹
北条氏直 家康の娘婿だったことから命を許され、高野山へ。翌年許されるが、まもなく亡くなる
徳川家康 北条家の旧領である関東に移され、江戸に入る
韮山城 家康の家臣・内藤信成が城主となる。慶長6年(1601)に廃城。いまは土塁や堀切が残る

筆者のひとこと

韮山城には実際に行ったことがあります。石垣はなく、基本は土を盛った土塁で守る城でした。山城といっても、それほど急な斜面ではなく、町なかにぽつんとある小高い丘に築いたという印象です。

水堀のようなものは見当たりませんでしたが、曲輪と曲輪のあいだを区切る空堀(堀切)はあったと記憶しています。

調べてみると、この城は伊豆を手に入れた北条早雲が拠点にし、小田原城を取ったあとも暮らして、最期を迎えた城でした。北条家の始まりの城を、最後に氏規が守り抜いたと思うと、感慨深いものがあります。

まとめ

韮山城の戦いは、秀吉の小田原征伐で、織田信雄を大将とする約4万4千の豊臣方が、北条氏規の守る伊豆の韮山城を囲んだ戦いです。北条早雲が拠点とし、亡くなった北条家の始まりの城で、氏規は約3,600の兵で最初の総攻めをはね返しました。同じ日に攻められた山中城が半日で落ちたのに対し、韮山城は付城で囲まれながら約3か月持ちこたえ、6月24日、家康の説得に応じて城を開きます。力で落とされなかった城の開城は、北条家の血筋を狭山藩として残すことにつながりました。

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