天正18年(1590年)、武蔵の低湿地に浮かぶ小さな城が、天下の大軍を相手に持ちこたえた。石田三成が全長28キロメートルの堤で囲み、水を引き込んでも沈まなかった城 — 忍城、またの名を「浮き城」である。備中高松・太田城とならぶ日本三大水攻めの一つでありながら、唯一「水攻めが失敗した」戦いとして知られる。
映画「のぼうの城」でも描かれたこの攻防を、なぜ落ちなかったのか、という視点でたどってみよう。
小田原征伐のなかの忍城
天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉は関東の雄・北条氏を攻めた。世に言う小田原征伐である。秀吉の大軍は小田原本城を大きく囲む一方、関東各地に散らばる北条方の支城を一つずつ攻め落としていった。
その支城の一つが、武蔵国の忍城だった。城主の成田氏長は小田原本城に詰めていて留守。城には、わずかな将兵と領民が残されるばかりだった。
「浮き城」忍城
忍城があったのは、いまの埼玉県行田市。元荒川や星川が流れる低湿地に築かれ、沼と川に幾重にも守られた、関東七名城の一つに数えられる堅城だった。
陸から攻めるには足場が悪く、水に囲まれて容易には近づけない。のちに「浮き城」と呼ばれるこの地形が、この戦いの行方を大きく左右することになる。
城を守る者たち
城主不在の忍城を預かったのは、城代の成田泰季、そしてそのあとを継いだ成田長親だった。派手さのない人物だったと伝わるが、城兵と領民をよくまとめた。
氏長の娘・甲斐姫が、みずから武具を身につけて戦ったという話も残る。武将だけでなく、そこに暮らす人々までが一つになって城を守ったのである。
三成、水攻めを命じられる
この城を任されたのが、石田三成だった。秀吉は三成に対し、水攻めのやり方を事細かに指示した書状を送っている。八年前の備中高松城で見せた、あの水攻めの再現をねらったのである。
低湿地に建つ忍城なら、水に沈められる — 机上ではそう見えた。三成は秀吉の意を受けて、堤づくりに取りかかる。
全長二十八キロの石田堤
三成は、元荒川などの自然の堤も利用しながら、城を囲む長大な堤を築いた。その全長はおよそ28キロメートル、しかもわずか四〜五日で築いたと伝わる。
動員された地元の農民には、昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に百文といった具合に、時間帯で変えた賃金が支払われたという。急ぎの、そして人海戦術による大工事だった。
沈まなかった城
ところが、水は思うように城を呑み込まなかった。忍城の周囲は、水がうまく溜まりにくい地形だったのである。
それどころか、雨で増した水はかえって堤を内側から圧迫した。六月十八日には堤の一部が切られ、あふれ出した水が寄せ手の陣を襲う。この決壊で、豊臣軍におよそ270人もの死者が出たと伝わる。水を武器にしたはずが、逆に水にやられたのだ。
力攻めも通じず
水攻めが失敗に終わると、寄せ手は力攻めに転じた。しかし、甲斐姫らの奮戦もあって、忍城はなお落ちなかった。
関東の他の北条方の城が次々と降っていくなかで、この小さな「浮き城」だけが、最後まで踏みとどまり続けたのである。
小田原の落城、そして開城
七月五日、ついに小田原城が降伏し、百年にわたって関東に君臨した北条氏は滅亡した。本城が落ちてしまえば、支城が戦い続ける理由はもうない。
七月十六日、城主・成田氏長の勧めにより、忍城はようやく城門を開いた。攻め落とされたのではなく、みずから開城したのだった。
「石田堤」と三成の評判
後世の軍記物は、三成が築いたこの堤を「石田堤」と呼び、水攻めの攻防を語り継いだ。堤の跡は、今も行田の地に残っている。
もっとも、皮肉なことに、この水攻めの失敗は三成に「戦下手」という評判を残すことにもなった。実務にすぐれた吏僚であった彼にとって、忍城は苦い記憶だったかもしれない。この攻防は、のちに映画「のぼうの城」でも描かれ、広く知られるようになった。
備中高松・太田城とならぶ日本三大水攻め
備中高松城(1582年)、紀伊の太田城(1585年)、そして武蔵の忍城(1590年)。この三つが、日本三大水攻めに数えられる。いずれも、しかけたのは秀吉の陣営だった。
ただし、備中高松と太田城が水攻めを成功させたのに対し、忍城だけは最後まで沈まなかった。「浮き城」という異名が、その顛末をなにより雄弁に物語っている。
まとめ
天下の大軍と、最新の戦法。そのどちらをもってしても、地形と、そこに生きる人々の意地の前には通じないことがある。
忍城の水攻めは、天下統一という大きな物語の片隅で、思いがけず語り継がれる名場面となった。落ちなかった小さな城の物語は、今も多くの人を惹きつけている。
忍城の水攻めに関わったおもな武将(寄せ手・豊臣方)
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