石山合戦をわかりやすく解説|信長はなぜ10年も本願寺を落とせなかったのか ― 雑賀衆の鉄砲、毛利水軍、和睦までの流れ

石山本願寺と寺内町、攻める織田軍と大坂湾の毛利水軍を描いた日本画風イラスト

織田信長が10年にわたって戦い、ついに力では落とせなかった相手がいます。大坂の石山本願寺です。元亀元年(1570)に始まったこの戦いは、天正8年(1580)に天皇の仲立ちで和睦するまで続きました。武田信玄や上杉謙信とも違う、信長を最も長く苦しめた「石山合戦」を、なぜ始まったのか、なぜ10年も続いたのか、どう終わったのかに分けてわかりやすく解説します。

先に答え

石山合戦は、織田信長と、浄土真宗(一向宗)の本山・石山本願寺の門主本願寺顕如との10年戦争です。

本願寺が10年も持ちこたえたのは、①川と湿地に囲まれた要害の地、②雑賀衆の鉄砲、③毛利水軍による海からの兵糧、④全国の門徒の支えがあったからです。最後は信長が力攻めをあきらめ、天皇の仲介による和睦で顕如が大坂を退去しました。

石山合戦の基本データ
いつ元亀元年(1570)9月〜天正8年(1580)8月
どこ摂津国大坂の石山本願寺とその周辺(いまの大阪城の場所)、大坂湾の木津川河口など
対立織田信長 × 本願寺(門主・顕如)
本願寺側に毛利家・雑賀衆・各地の一向一揆などが味方
結果天正8年閏3月に勅命による和睦。顕如は紀伊の鷺森へ移り、本願寺は炎上
石山本願寺を攻める織田軍と毛利水軍のイメージ
石山本願寺と攻める織田軍、海から兵糧を運ぶ毛利水軍(イメージ)
目次

石山合戦の年表

年おもな出来事
永禄11年(1568)信長が足利義昭を奉じて上洛。本願寺に軍資金(矢銭)5,000貫を求め、本願寺はこれに応じる
元亀元年(1570)9月信長が摂津の三好三人衆を攻める最中、顕如が全国の門徒に檄を飛ばして挙兵。石山合戦の始まり
元亀元年〜天正元年浅井・朝倉、武田信玄、足利義昭らと「信長包囲網」を組む。伊勢長島でも一揆が起きる
天正元年(1573)信玄の死、義昭の追放、浅井・朝倉の滅亡で包囲網が崩れる
天正2年(1574)長島一向一揆が殲滅される
天正4年(1576)5月天王寺砦の戦い。織田方の塙直政が討死し、信長自ら出陣して足に鉄砲傷を負う
天正4年(1576)7月第一次木津川口の戦い。毛利水軍が焙烙火矢で織田水軍を破り、本願寺へ兵糧を運び込む
天正5年(1577)2月信長が雑賀攻め。雑賀衆はいったん降るが、抵抗は続く
天正6年(1578)荒木村重が信長に背き、本願寺・毛利と結ぶ。11月、第二次木津川口の戦いで九鬼嘉隆の大船が毛利水軍を退ける
天正7〜8年(1579〜80)有岡城、三木城が落ち、本願寺は孤立していく
天正8年(1580)閏3月朝廷の仲立ちで和睦が成立
天正8年(1580)4月顕如が大坂を出て紀伊の鷺森へ
天正8年(1580)8月最後まで籠城を続けた教如も退去。直後に本願寺は炎上する

石山合戦はなぜ始まったのか

はっきりした理由を書き残した史料はなく、いくつかの見方があります。よく挙げられるのは次の3つです。

見方中身
① 立ち退きを迫られた信長が大坂の地を欲しがり、本願寺に退去を求めたとする見方。大坂は水運の要で、のちに秀吉が大坂城を築いたほどの土地だった
② 度重なる要求への反発上洛直後の矢銭5,000貫をはじめ、信長の要求が続いたことへの反発とする見方
③ 反信長勢力との連携三好三人衆や浅井・朝倉、足利義昭と結び、信長を包囲する動きに加わったとする見方

顕如は諸国の門徒に「信長は本願寺を破却しようとしている」と書き送り、立ち上がるよう呼びかけました。宗派そのものを守る戦いとして、門徒に受け止められたことが大きな力になります。

石山合戦に登場した主な武将(本願寺方)

人物立場石山合戦での動き
本願寺顕如本願寺の門主全国の門徒に檄を飛ばして挙兵。10年間、本願寺を率いる
教如顕如の長男和睦に反対し、父の退去後も籠城を続ける
下間頼廉本願寺の坊官本願寺軍の指揮をとる
鈴木重秀雑賀衆の頭領。雑賀孫一の名で知られる鉄砲隊を率いて本願寺を支える
湊高秀雑賀衆の一人雑賀衆として本願寺に味方する
毛利輝元毛利家の当主本願寺と結び、水軍で兵糧を送り続ける
小早川隆景毛利家の重臣毛利水軍を動かす
村上武吉・村上吉充村上水軍第一次木津川口の戦いで織田水軍を破る
乃美宗勝小早川家の水軍の将第一次木津川口の戦いに加わる
足利義昭室町幕府最後の将軍京を追われたあとも、反信長の勢力をまとめようとする

石山合戦に登場した主な武将(織田方)

人物石山合戦での動き
織田信長天正4年の天王寺砦の戦いで自ら出陣し、足を撃たれる
塙直政(原田直政)本願寺攻めの指揮官。天正4年5月、三津寺付近で討死
佐久間信盛塙直政の死後、天王寺砦に入り本願寺包囲の総指揮をとる。和睦のあと信長に追放される
九鬼嘉隆鉄で守ったとされる大船を率い、第二次木津川口の戦いで毛利水軍を退ける
荒木村重摂津の大名。天正6年に信長に背いて本願寺・毛利と結ぶ
明智光秀天王寺砦の戦いなどで本願寺攻めに加わる
滝川一益九鬼嘉隆とともに大船をつくり、海上封鎖を担う
松永久秀本願寺攻めの最中の天正5年に信長に背き、信貴山城で滅ぶ
近衛前久公家。朝廷の使者として和睦をまとめる

なぜ10年も落ちなかったのか

石山本願寺・天王寺砦・木津川口の位置関係図
石山本願寺と天王寺砦、木津川口の位置関係(イメージ図)

① 川と湿地に守られた要害

本願寺は上町台地の北の端にあり、北と東は淀川・大和川の流れと湿地、西は大坂湾に囲まれていました。周りには寺内町が広がり、堀と土塁で町ごと守られていました。攻め手が近づける道は南の台地しかなく、のちに秀吉がここに大坂城を築いたのも、この地形があったからです。

② 雑賀衆の鉄砲

紀伊の雑賀衆は、鉄砲の扱いに長けた集団でした。門徒の多い雑賀衆は本願寺に味方し、鈴木重秀(雑賀孫一)らが鉄砲で織田軍を苦しめます。天王寺砦の戦いで信長自身が撃たれたのも、本願寺方の鉄砲の厚さを物語っています。

③ 毛利水軍による海からの兵糧

陸を囲まれても、本願寺は海につながっていました。天正4年の第一次木津川口の戦いでは、毛利方の村上水軍が焙烙火矢(火薬を詰めた投げ弾)で織田の船を焼き払い、大量の兵糧を運び込みます。海の道が開いているかぎり、兵糧攻めは成り立ちませんでした。

④ 全国の門徒

本願寺の力は、大坂の城のような寺だけではありません。伊勢長島、越前、加賀など各地の門徒が一揆を起こし、信長は大坂だけに兵を集められませんでした。石山合戦は、一つの城をめぐる戦いというより、全国に広がる門徒との戦いでした。

どう終わったのか ― 力攻めではなく和睦

流れを変えたのは海でした。天正6年11月、九鬼嘉隆の大船が第二次木津川口の戦いで毛利水軍を退け、大坂湾の封鎖に成功します。同じころ味方の荒木村重の有岡城、別所長治の三木城が次々に落ち、本願寺は外とのつながりを失っていきました。

信長は最後まで力で攻め落とすことはせず、朝廷に仲立ちを頼みます。天正8年(1580)閏3月、正親町天皇の意向という形で和睦が結ばれ、4月に顕如は紀伊の鷺森へ移りました。ただ、長男の教如は和睦に従わず籠城を続け、8月にようやく退去します。その直後、本願寺は火に包まれ、3日にわたって燃え続けたと伝わります。

石山合戦のその後

人物・場所その後
佐久間信盛天正8年8月、10年かけても本願寺を落とせなかったことなどを19か条の折檻状で責められ、高野山へ追放される
石山本願寺の跡地天正11年(1583)から、羽柴秀吉がこの地に大坂城を築く
本願寺顕如天正19年(1591)に秀吉から京都の土地を与えられ、本願寺を再興する。いまの西本願寺で、幕末には新選組の屯所が置かれた
教如父と対立したことで家督を継げず、のちに徳川家康の後押しで別に本願寺を建てる。これがいまの東本願寺で、本願寺は東西に分かれる
鈴木重秀石山合戦のあとも紀伊で勢力を保つが、雑賀衆は天正13年に秀吉の紀州攻めで力を失う

いま大阪城が建つ場所が、かつての石山本願寺です。大阪城の歴史は、姉妹サイトの大阪城:秀吉の城は地下に眠るで紹介しています。

筆者のひとこと

石山本願寺の跡にあたる大阪城と、京都の西本願寺・東本願寺を訪れたことがあります。西本願寺は秀吉が寄進した土地に、東本願寺は家康が寄進した土地に建てられたと聞きました。

どちらも広大な敷地で、まるで城のような塀に囲まれていました。幕末には西本願寺が新選組の屯所に使われたほどで、寺というより城のような堅固な印象でした。

石山合戦の本願寺は、信長をもっとも長く苦しめた敵だったと思います。

なかでも心ひかれるのが雑賀孫一です。鉄砲集団の雑賀衆を率い、大名ではない立場で、信長も秀吉も苦しめ続けました。

まとめ

石山合戦は、信長が10年をかけても力では落とせなかった戦いでした。要害の地、雑賀衆の鉄砲、毛利水軍の兵糧、全国の門徒。この4つがそろっていたかぎり、本願寺は持ちこたえます。海を封じ、味方の城を一つずつ落とし、最後は朝廷を通じた和睦で決着させたところに、信長の粘り強さと現実的な判断が見えます。

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