つちや まさつね
| 地域 | 甲信越(甲斐) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 武田氏(勝頼の近臣) |
| 大名家 | 土屋家 |
| 家紋 | 不詳 |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 忠義の武将 |
土屋昌恒(つちや まさつね)は、武田勝頼に仕えた武将で、長篠の戦いで討死した土屋昌続の弟である。弘治2年(1556年)に生まれ、天正10年(1582年)に27歳で討死した。武田家が滅ぶとき、多くの家臣が勝頼のもとを去るなかで最後までつき従い、天目山のふもとで織田軍と戦って散った。
3行でわかる土屋昌恒
- 兄の土屋昌続が長篠で討死したあと、土屋家を継いだ
- 武田家滅亡のとき、勝頼に最後までつき従った
- 崖道で片手に藤づるをつかみながら敵を斬り続けたと伝わり、「片手千人斬り」と呼ばれた
目次
土屋家を継ぐ
昌恒は武田家の家臣・金丸筑前守の子として生まれ、のちに土屋家に入った。兄の土屋昌続が天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死すると、土屋家を継いで勝頼の近臣となった。
片手千人斬り
天正10年(1582年)、武田家の家臣が次々に離れていくなか、昌恒は勝頼に最後までつき従った。勝頼が田野(山梨県甲州市)に追いつめられると、昌恒は細い崖道で、片手に藤づるをつかんで体を支えながら、もう一方の手で刀をふるって織田の兵を次々と斬ったと伝わる。この話から「片手千人斬り」と呼ばれる。
昌恒は勝頼の最期を見届けたのち、討死した。
その後
昌恒の子・土屋忠直は、のちに徳川家康に取り立てられ、上総の久留里藩主となった。家康は武田家への昌恒の忠義を高く評価したといわれる。
土屋昌恒をめぐる人物
- 主君:武田勝頼
- 兄:土屋昌続
- 子:土屋忠直(久留里藩主)
ゆかりの地
- 景徳院(山梨県甲州市大和町田野):勝頼と最期をともにした家臣たちをまつる寺
- 土屋惣蔵片手切跡(山梨県甲州市大和町):昌恒が戦ったと伝わる崖道


武田勝頼
小山田信茂
徳川家康
土屋昌続







































