豊臣秀吉が一代で天下人へと駆け上がった影には、稀代の軍師がいました。黒田官兵衛(くろだ かんべえ)――のちの黒田如水(じょすい)です。竹中半兵衛と並んで「両兵衛」と称され、その知略は時に「切れすぎて危険」とまで恐れられました。秀吉の天下を設計した男の生涯をたどります。
播磨の小寺家に仕えた青年
官兵衛は天文15年(1546年)、播磨姫路に生まれました。はじめは播磨の小さな大名・小寺氏の家老を務めていましたが、早くから織田信長の将来性を見抜き、主君に信長への臣従を説きます。やがて中国方面の攻略を任された羽柴秀吉に接近し、その参謀として頭角を現していきました。
秀吉の参謀へ――両兵衛
秀吉のもとで官兵衛は、竹中半兵衛とともに「両兵衛」と呼ばれる名軍師コンビを形成します。半兵衛が病に倒れたのちは、官兵衛が一手に軍略を担いました。城の弱点を見抜く縄張りの目、敵を内側から崩す調略の巧みさは、秀吉の快進撃を支える大きな力となります。
有岡城の幽閉
官兵衛の生涯で最大の試練が、天正6年(1578年)の有岡城事件です。信長に叛いた荒木村重を翻意させようと単身乗り込んだ官兵衛は、逆に城の土牢に一年近くも幽閉されてしまいました。このとき足を痛め、生涯不自由な体になったと伝わります。裏切りを疑われた官兵衛の子・松寿丸(のちの黒田長政)を、半兵衛がひそかに匿って救った逸話は、両兵衛の絆を物語る名場面です。
中国大返しを献策する
天正10年(1582年)、本能寺の変の報が備中高松城を囲む秀吉の陣に届きます。動揺する秀吉に、官兵衛は「御運が開かれる好機」と即座の決断を促したと伝わります。毛利との講和をまとめ、全軍を一気に京へ返す――世に言う中国大返しです。この電光石火の反転が、秀吉を天下取りへと押し上げました。官兵衛の一言が、歴史を動かしたのです。
水攻めと城攻めの名手
官兵衛は各地の攻城戦で真価を発揮しました。水を操り、地形を読み、時に一戦も交えずに城を落とす――その手腕は「攻めの黒田」として恐れられます。豊臣秀吉の九州征伐でも先導役を果たし、豊前中津に領地を得ました。しかしその切れすぎる才は、天下を取った秀吉にかえって警戒されるようになっていきます。
関ヶ原と「如水」
やがて官兵衛は家督を長政に譲り、出家して「如水」と号します。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、九州にあってわずかな手勢から兵を集め、独自に周辺の諸城を切り取っていきました。天下を狙ったのではという説も残る、老軍師最後の見せ場です。子・長政は関ヶ原の功で筑前福岡五十二万石の大名となり、黒田家は栄えました。官兵衛の詳しい経歴は黒田官兵衛の武将ページでも紹介しています。
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