2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の四国平定回を前に、その“裏”でもうひとつの兄弟の物語が注目されています。土佐の小豪族から四国の大半を制した長宗我部元親と、その兄を支えた弟・親泰の物語です。秀吉に秀長がいたように、元親にも頼れる弟がいました。外交と軍事で兄を支えた香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)の生涯をたどります。
国親の三男、香宗我部家を継ぐ
親泰は天文3年(1543年)、長宗我部国親の三男として生まれました。兄には、のちに四国統一を成し遂げる長宗我部元親がいます。弘治4年(1558年)、父の命により、親泰は近隣の名族・香宗我部家の養子となりました。敵対しかねない一族に身内を送り込んで味方に取り込む――これもまた、長宗我部の勢力拡大の巧みな一手でした。以後、彼は「香宗我部親泰」を名乗ります。
兄を支えた「軍代」――軍事の弟
親泰は、兄・元親の四国統一戦で軍事の中核を担いました。とくに阿波(現在の徳島県)方面の攻略では、軍代(軍の代行者)として前線を率い、長宗我部の東進を支えます。もう一人の弟・吉良親貞とともに、元親は有能な兄弟たちに恵まれていました。武勇の兄を、弟たちが実務で支える――その構図こそ、四国攻めに至るまでの快進撃の原動力だったのです。
外交の顔――信長・秀吉との交渉
親泰のもう一つの顔が、外交です。天正8年(1580年)には海を渡って安土城におもむき、織田信長に拝謁して長宗我部と織田の取次を務めました。信長の死後に天下人となった豊臣秀吉との交渉も、親泰が担います。武力だけでは生き残れない戦国後期にあって、中央の天下人と渡り合う交渉役は、一族の命運を左右する重責でした。まさに、外交で家を守った弟だったのです。
四国攻めと、その後
天正13年(1585年)、秀吉の四国攻めが始まると、親泰は阿波の牛岐城を守って抗戦します。しかし圧倒的な兵力の前に元親は降伏し、長宗我部家は土佐一国に減らされました。以後は、天下人となった豊臣政権とどう向き合うかが生き残りの鍵となります。ここでも親泰の外交手腕が一族を支え続けました。兄・元親の統治を、弟が中央との折衝で下支えする日々が続いたのです。
“もうひとつの兄弟大河”
秀吉を天下人へと押し上げた弟・豊臣秀長。同じように、元親の四国制覇の陰には、軍事と外交で兄を支え続けた弟・親泰がいました。天下人の兄弟と、四国の兄弟――立場は違えど、「頼れる弟が兄の覇業を支えた」という物語は驚くほど重なります。番組が「もうひとつの兄弟大河」と呼ぶゆえんです。長宗我部の兄弟の全体像は長宗我部兄弟の記事でも紹介しています。
弟の最期
文禄2年(1593年)、親泰は長門(現在の山口県)で急死しました。享年五十一。兄・元親の四国統一と、その後の苦難の時代を、軍事と外交の両輪で支え続けた生涯でした。長男・信親を戸次川の戦いで失った元親にとって、弟たちの存在はどれほど心強かったことでしょう。表舞台の兄の陰で家を支えた親泰の姿は、香宗我部親泰の武将ページでも詳しく紹介しています。
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