中国大返し——秀吉はなぜ約230kmを10日で駆け戻れたのか

中国大返し・雨中を進軍する秀吉軍

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、兄・豊臣秀吉と弟・秀長が天下取りへと大きく舵を切る場面——それが中国大返し(ちゅうごくおおがえし)です。本能寺の変で主君・織田信長が斃れた報を、遠く備中で受けた秀吉。彼はそこから、約230kmもの道のりをわずか10日ほどで駆け戻り、主君の仇・明智光秀を討つ舞台に立ちました。日本史上でも屈指の「強行軍」として知られるこの撤退戦を、史実にもとづいて追っていきます。

目次

備中高松城の陣中に届いた凶報

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きたそのとき、羽柴秀吉と弟・秀長は、遠く備中高松城(現在の岡山市)を水攻めにしている真っ最中でした。毛利方の名将・清水宗治が守るこの城を水に沈め、毛利軍の本隊と対峙する——まさに大勝負の局面です。

信長横死の急報が秀吉のもとに届いたのは、6月3日の夜から4日にかけてのこととされます。主君を失えば、味方は動揺し、目の前の毛利は勢いづく。ふつうなら総崩れになりかねない絶体絶命の状況でした。しかし秀吉は、まずこの衝撃の情報を厳重に封じ込め、動揺を外に漏らしませんでした。

毛利との電光石火の和睦

秀吉が真っ先に動いたのは、目の前の毛利との講和でした。信長の死をまだ知らない毛利方に対し、秀吉は清水宗治の切腹を条件に高松城を開城させる形で、すばやく和睦を成立させます。6月4日、宗治は湖と化した城を前に船上で見事に自刃し、城は開きました。

もし毛利が信長の死を知っていれば、和睦どころか秀吉軍を背後から襲ったかもしれません。情報を制した秀吉は、この「知られていない」わずかな時間差を最大限に活かし、全軍を反転させて京へと向かったのです。

約230kmを、約10日で

ここからが世に名高い「中国大返し」です。秀吉軍は備中高松から、約230kmの道のりを10日ほどで踏破して畿内へと戻りました。梅雨どきの悪路を、数万の大軍が驚異的な速さで移動したのです。

行程は、6月4日から6日ごろに撤退を開始し、途中姫路城で軍を立て直し、6月11日には摂津・尼崎まで到達したと伝えられます。そして6月13日、山城の山崎で明智光秀と決戦を迎えることになります。信長の死からわずか十日あまりで、秀吉は仇討ちの舞台に立ったのです。

なぜ、これほど速く動けたのか

これだけの大軍が、これほどの速さで長距離を移動できたのはなぜか。そこにはいくつもの要因がありました。

ひとつは、先に述べた毛利との和睦によって、背後の憂いを断ったこと。もうひとつは、周到な兵站(へいたん)の準備です。伝わるところでは、秀吉は姫路城に立ち寄った際、蔵にあった金銀や米を惜しみなく将兵に分け与え、士気を保ったといいます。さらに近年の研究では、城郭考古学者・千田嘉博氏が、秀吉は信長の中国出兵に備えてあらかじめ街道沿いに休息・宿泊の拠点や兵糧を整えていたのではないか、と指摘しています。つまり大返しは、その場の思いつきではなく、日頃の周到な備えがあってこそ可能だったという見方です。

「速すぎる」——諸説と謎

一方で、この行軍のあまりの速さから、さまざまな議論も生まれています。出発の日付が6月4日だったのか6日だったのか、行軍の経路はどうだったのか——研究者の間でも説が分かれています。中には「秀吉はあらかじめ変が起きることを知っていたのではないか」といった大胆な推測まで語られることがありますが、これらは確たる史料に基づくものではありません。

確実に言えるのは、情報を制する判断力、味方をまとめる統率力、そして日頃の備え——それらが噛み合って初めて、この歴史的な強行軍が実現したということです。中国大返しは、秀吉という武将の非凡さを最もよく物語る一幕なのです。

弟・秀長も、この疾走の中に

この大返しの間、弟の秀長もまた、兄とともに軍中にありました。前線を差配する兄を、後方の兵站や部隊の統率で支える——のちに「兄を支える名補佐役」と評される秀長にとって、この一大撤退戦は、まさにその真価が問われる場面でした。兄弟が総力を挙げて京へ急いだその先に待っていたのが、天下分け目の初戦・山崎の戦いだったのです。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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