【考察】茶々の子がもたらすもの — 鶴松・秀頼と、豊臣をめぐる後継問題の始まり(第39回「茶々の本心」の先に)

幼い男児を抱く戦国の母(淀殿と秀頼)の日本画風イメージ

大河『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」で、秀長は兄・秀吉に、織田の血を引く茶々をめとるよう勧める。待ち望まれた後継者を得るための一手だが、この縁談は、豊臣の家にとって光であると同時に、大きな火種の始まりでもあった。ここでは、放送の先で実際に起きていく歴史を、筆者の考察としてたどってみたい。これから書くのは史実にもとづく「この先の展開」であり、ドラマの今後を知りたくない方はご注意いただきたい。

目次

まず生まれた子・鶴松 — そしてすぐに失う

茶々は天正十七年(一五八九)、秀吉との間に待望の男子を産む。鶴松である。五十を過ぎてようやく授かった実子に、秀吉の喜びは大きかった。ところがこの子は、わずか二年後の天正十九年(一五九一)、数えで三歳の幼さでこの世を去ってしまう。秀吉の落胆は深く、そして同じ年には、政権を陰で支えてきた弟・秀長もまた病に倒れ、世を去っていた。頼れる弟と待望の子を相次いで失ったことは、豊臣の屋台骨を静かに揺るがし始める。秀長の最期については豊臣秀長の死にまとめている。

後継の空白が生んだ悲劇 — 秀次事件

実子を失った秀吉は、甥の秀次を養子に迎え、関白の座を譲って後継に据えた。ところが文禄二年(一五九三)、茶々がふたたび男子を産む。のちの秀頼である。実の子が生まれたことで、養子・秀次の立場は一転して危ういものになった。そして文禄四年(一五九五)、秀次は謀反の疑いをかけられて切腹に追い込まれ、その妻子までが処刑されるという凄惨な事件に至る。実子を得たいという願いが、巡り巡って一族の悲劇を生んだのである。秀次という人物は豊臣秀次とはに、この事件の流れは豊臣秀長の死と秀次事件にくわしい。

秀頼と淀殿 — 豊臣を背負う母子

秀頼を産んだ茶々は、やがて淀殿と呼ばれ、幼い我が子の後見として豊臣の中心に立つようになる。かつて「親の敵の側室になど」と拒んだ娘が、いまや豊臣の命運を背負う母となっていく—その変化こそ、第39回のタイトル「茶々の本心」が指し示す、長い物語の入口なのかもしれない。秀吉の死後、淀殿と秀頼は台頭する徳川家康と対峙し、歴史はやがて大坂の陣へと向かっていく。茶々その人の生涯は淀殿(茶々)とはに、相対することになる家康は徳川家康とはにまとめている。

もし秀長が生きていれば — 歴史の「もしも」

この後継をめぐる歪みを、もし調停できた人物がいたとすれば、それはおそらく秀長だっただろう。冷静に家中を取りまとめ、兄をいさめることのできた唯一の弟。だが秀長は、鶴松が生まれてまもない時期に世を去ってしまう。第39回で秀長自身が勧めたこの縁談は、皮肉にも、彼が去ったあとの豊臣を大きく揺らす種になっていった。支柱を失った政権がどうなっていったかは豊臣秀長の死で読める。

第39回「茶々の本心」の先に

縁談から鶴松の誕生と夭折、秀次事件、秀頼の誕生、そして大坂の陣へ—第39回は、この長い連鎖の出発点にあたる。茶々の本心がどこにあったにせよ、歴史は確かにこう動いた。めとられる茶々の視点は茶々はなぜ側室になるのか(予想)、勧める秀長の思惑はなぜ秀長は茶々を勧めたのか(考察)、見守る正室ねねの胸中はねねの本心(予想)にまとめている。放送を見届けたら、あらためて答え合わせをしたい。

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