沼田問題とは?徳川と真田はなぜもめたのか|秀吉・家康・真田・北条の関係図と勢力図でわかりやすく解説【豊臣兄弟!第39回】

上田城から徳川の大軍を見下ろす真田昌幸(イメージ)

大河『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、秀吉(池松壮亮)が家康の重臣・石川数正(迫田孝也)を大坂城に呼び、徳川と真田の和睦を命じます。ところが家康(松下洸平)はこれを拒み、豊臣との戦支度を始めてしまう。では、そもそも徳川と真田は何でもめていたのか。答えは「沼田問題(沼田領問題)」です。

この記事では、沼田問題とは何か、なぜ徳川・真田・北条の三者がもめたのか、そこに秀吉がどう割って入ったのかを、勢力図・関係図・年表つきでわかりやすく解説します。のちに谷原章介さんが演じる北条氏政の運命まで、この問題一本でつながっていきます。

この記事の要点(3行でわかる沼田問題)

  • 沼田問題とは、上野国(いまの群馬県)の沼田領を、真田・北条・徳川が奪い合った領地争い
  • 家康が北条との和睦の条件に「真田の沼田を北条へ渡す」と約束したのに、真田昌幸が拒否したのが発端。1585年の第一次上田合戦に発展
  • 最後は秀吉が裁定したが、北条方が名胡桃城を奪ったことで秀吉が激怒し、小田原征伐(1590年)で北条氏は滅亡した
目次

沼田問題とは? — 上野国・沼田をめぐる真田・北条・徳川の争い

沼田は、上野国の北部、利根川と片品川が合流する河岸段丘の上にある城下です。越後(上杉)・信濃(真田)・関東平野(北条)を結ぶ交通の要で、関東の北の玄関口ともいえる土地でした。

武田氏が滅んだ天正10年(1582)、この沼田城を押さえたのが、もと武田家臣の真田昌幸です。昌幸にとって沼田は、主家が滅ぶ混乱のなかで自分の力で確保した領地でした。ところが関東の覇者・北条氏にとっては、上野一国を支配するうえで欠かせない城。そして徳川家康にとっては、北条との同盟を守るための「取引材料」になってしまいます。三者の思惑がぶつかった、これが沼田問題です。

天正13年(1585)ごろの勢力図。真田昌幸の上田・岩櫃・沼田・名胡桃と、徳川・北条・上杉の勢力範囲
天正13年(1585)ごろの勢力図。真田領(上田・吾妻・沼田)は、徳川・北条・上杉の勢力に挟まれていた(おおよその図)

なぜもめた?① 本能寺の変後の「天正壬午の乱」

天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が倒れると、武田の旧領(甲斐・信濃・上野)は空白地帯になりました。ここに徳川・北条・上杉が一斉に攻め込みます。これを天正壬午の乱といいます。

この混乱のなかで、真田昌幸は生き残るために主を次々と替えました。織田から上杉へ、上杉から北条へ、そして北条から徳川へ。「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」と呼ばれた昌幸の面目躍如ですが、これは小さな国衆が大大名に挟まれて生き抜くための、ぎりぎりの選択でもありました。

なぜもめた?② 徳川と北条の和睦条件「上野は北条のもの」

天正10年10月末、徳川と北条は和睦します。その条件は、甲斐・信濃は徳川、上野は北条という国分けでした。あわせて家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぎ、両家は同盟を結びます。

問題は、上野にある沼田を持っていたのが、徳川に従っていた真田だったことです。「上野は北条」という約束を守るなら、家康は真田に沼田を北条へ明け渡させなければなりません。北条からすれば当然の要求ですが、真田からすれば、自分で手に入れた土地を、頭越しに取引の駒にされたことになります。

なぜもめた?③ 真田昌幸の拒否 — 「徳川からもらった土地ではない」

天正13年(1585)、北条の催促を受けた家康は、昌幸に沼田の引き渡しを命じます。昌幸の答えは拒否でした。沼田は徳川から与えられた土地ではなく、自らの力で得た土地だ、という理屈です。

昌幸は徳川と手を切り、かつての敵・上杉景勝に従います。このとき人質として越後に送られたのが、次男の真田信繁(幸村)でした。上杉の後ろには、すでに景勝と結んでいた秀吉がいます。昌幸は、徳川・北条の同盟に対して、上杉と秀吉の側につくことで対抗したのです。

上田城から徳川の大軍を見下ろす真田昌幸(イメージ)
上田城の真田昌幸(イメージ)

第一次上田合戦(1585年) — 真田が徳川の大軍を撃退

面目を潰された家康は、天正13年閏8月、鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らに約7,000の兵をつけて、真田の上田城を攻めさせました。迎え撃つ真田方は約1,200ほどとされます。

昌幸は徳川勢を城下深くまで誘い込み、城と町の地形を生かして反撃、徳川軍に大きな損害を与えて撃退しました。徳川方の戦死は1,300人にのぼったとも伝わります(数は軍記物によるもので、誇張もあると考えられます)。長男の真田信幸(のちの信之)は支城の戸石城を守りました。

この勝利で真田の名は一気に高まります。のちに家康が、本多忠勝の娘・小松姫を信幸に嫁がせて真田を味方に取り込もうとしたのも、この合戦で真田の手強さを思い知ったからだといわれます。

秀吉・家康・真田・北条の関係図(1585年)

第39回の時点の関係を一枚にまとめると、次のようになります。ポイントは、家康の背後には北条がいて、真田の背後には上杉、さらにその背後に秀吉がいた、という「二つの陣営」の構図です。

1585年の秀吉・家康・真田・北条・上杉・石川数正の関係図
天正13年(1585)の関係図。徳川・北条の同盟に対し、真田は上杉を通じて秀吉の側についた
  • 豊臣秀吉 ⇔ 徳川家康:前年の小牧・長久手の戦いのあと和睦したが、家康はまだ臣従していない。緊張状態が続く
  • 徳川家康 ⇔ 北条氏政・氏直:督姫の婚姻で結ばれた同盟。家康にとっては秀吉に対抗するための「背中」
  • 徳川家康 × 真田昌幸:沼田問題で手切れ。第一次上田合戦で真田が勝つ
  • 真田昌幸 → 上杉景勝 → 豊臣秀吉:真田は上杉に従い、上杉は秀吉に従う。秀吉は真田を通じて家康を揺さぶれる
  • 北条 × 真田:沼田そのものを争う当事者。北条にとって沼田は「約束されたはずの土地」

秀吉はなぜ徳川と真田の争いに口を出したのか

ドラマで秀吉が数正に和睦を命じるのは、この構図のなかで見るとよくわかります。秀吉にとって家康は、まだ従っていない最大のライバルでした。真田との戦が長引けば家康は疲れ、北条との同盟も揺らぐ。一方で、東国で勝手に戦が続くことは、天下人として許しておけない。「争いは天下人が裁く」という形をつくること自体が、家康を臣従させるための一手だったと考えられます。

天正13年(1585)7月に関白となった秀吉は、九州の島津にも停戦を命じるなど、大名どうしの私戦を止めて自分が裁く立場を打ち出していきます。研究者のあいだでは「惣無事(そうぶじ)」という言葉で説明されることもあります(法令として出されたかどうかには議論があります)。

家康はなぜ和睦を拒んだのか — そして石川数正の出奔へ

家康にしてみれば、真田は「北条との約束を破らせた裏切り者」です。秀吉の命令で真田と和睦すれば、北条との同盟が崩れかねないうえ、秀吉の下風に立つことを認めることにもなります。第39回で家康が和睦を拒み、対豊臣の戦支度を始めるのは、この板挟みを考えれば自然な流れです。

そしてこの年の11月、秀吉との交渉役だった石川数正が、突然徳川を出奔して秀吉のもとへ走ります。徳川の軍制や内情を知り尽くした重臣の離反は、家康にとって大きな衝撃でした。予告の「徳川、激震す。」は、まさにこの出来事を指しているのでしょう。数正の出奔によって、上田に残っていた徳川勢も引き揚げることになりました。

その後、秀吉は家康攻めの準備を進めますが、同年11月末の天正地震で計画は立ち消えになり、翌天正14年(1586)、家康は上洛して秀吉に臣従します。真田昌幸も秀吉に従い、家康の与力(指揮下の大名)という形で決着しました。

沼田問題のその後 — 秀吉の沼田裁定と名胡桃城事件

家康が豊臣に従ったことで、残る大物は北条だけになりました。秀吉は北条に上洛を求め、その条件として北条が持ち出したのが、またしても沼田でした。

天正17年(1589)、秀吉は沼田問題に裁定を下します。沼田城を含む沼田領の3分の2を北条に、名胡桃城を含む3分の1を真田に。真田が手放す分の替え地は、徳川から与えることとされました。真田は名胡桃を「先祖の墓がある地」と主張したと伝わります。

ところが同じ年の11月、沼田城に入った北条方の城代・猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城を奪い取ってしまいます。名胡桃城を預かっていた鈴木重則(主水)は、だまされて城を空けたすきに城を奪われ、責任をとって自害したと伝わります。これが名胡桃城事件です。

秀吉の裁定を力で破ったこの事件に、秀吉は激怒しました。11月24日付で北条に宣戦布告ともいえる書状を送り、翌天正18年(1590)、20万ともいわれる大軍で小田原征伐に乗り出します。小田原城は開城し、北条氏政は切腹、当主の北条氏直は高野山へ追放されました。沼田は真田に戻り、信幸が沼田城主となります。

沼田問題の年表。1582年の天正壬午の乱から1590年の小田原征伐まで
沼田問題の流れ。小さな領地をめぐる争いが、北条氏の滅亡にまでつながった

北条氏政(谷原章介)にとっての沼田問題

『豊臣兄弟!』で北条氏政を演じるのは谷原章介さん。氏政はこの時期、家督を子の氏直に譲った「御隠居」でしたが、北条家の実権を握り続けていました。

北条から見れば、沼田は徳川との和睦で約束された土地であり、真田が居座っているのは約束違反です。秀吉の裁定でようやく沼田城を得たものの、名胡桃城を奪ったことが命取りになりました。名胡桃城事件が北条の上層部の指示だったのか、現地の城代の独断だったのかは、はっきりしていません。北条側は秀吉に弁明しましたが、聞き入れられませんでした。

ドラマがこの先、氏政をどんな人物として描くのか。「沼田」という小さな土地へのこだわりが、関東に百年続いた北条氏を滅ぼす引き金になった、という皮肉な流れに注目したいところです。

よくある質問

Q. 沼田問題を一言でいうと?

A. 上野国の沼田領をめぐる、真田・北条・徳川の領地争いです。家康が北条に「沼田を渡す」と約束し、真田が拒んだことから始まり、最終的には秀吉の小田原征伐の引き金になりました。

Q. 第一次上田合戦はいつ?

A. 天正13年(1585)閏8月です。徳川の大軍を、真田昌幸が上田城で撃退しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の前に起きた第二次上田合戦とは別の戦いです。

Q. 沼田は最終的に誰のものになった?

A. 小田原征伐で北条氏が滅んだあと、真田のものに戻りました。真田信幸(信之)が沼田城主となり、関ヶ原後も信之の沼田領として続きました。

Q. 第39回の「徳川と真田の和睦」は史実?

A. 秀吉が東国の争いを止めさせようとし、真田を家康の与力とする形で収めたのは史実の流れに沿っています。数正が大坂城で和睦を命じられる場面そのものは、ドラマの描き方です。

まとめ

沼田問題は、真田が自力で得た沼田を、徳川が北条との同盟のために差し出そうとしたことから始まりました。真田は上杉・秀吉の側に回って徳川を上田で破り、家康は秀吉への臣従へと追い込まれていきます。そして最後は、沼田をめぐる名胡桃城事件が北条氏滅亡の引き金になりました。第39回の「徳川と真田の和睦」は、この長い物語の入り口にあたる場面です。

あわせて、同じ第39回のもう一つの軸である茶々の話は茶々はなぜ秀吉の側室になったのかで、放送前の展開予想は第39回「茶々の本心」あらすじと展開予想でまとめています。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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