たちはら ひさつな
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 尼子再興軍 |
| 大名家 | 尼子再興軍 |
| 家紋 | 平四つ目結 |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 忠義・大参謀 |
山中幸盛(鹿介)の伯父。尼子家再興戦の頭脳として内外の交渉や軍略を担当し、幸盛とともに毛利軍と死闘を展開。
尼子氏と月山富田城の落城
立原久綱は、出雲の戦国大名尼子氏に仕えた武将である。尼子氏はかつて山陰・山陽に一大勢力を築いたが、毛利元就の攻勢によって永禄九年(1566)に本拠月山富田城が落城し、大名家としては滅亡した。久綱は主家滅亡後も尼子再興の悲願を捨てず、同志とともに立ち上がった。
尼子再興軍の頭脳
久綱は、尼子氏の一族である尼子勝久を新たな主君として擁立し、兵を挙げた。彼は再興軍の軍略や交渉を担う頭脳として、山中幸盛(鹿介)ら同志を束ねた。織田信長を頼み、その支援を得て中国地方へ進攻するなど、久綱は再興戦の政治・外交面で重要な役割を果たした。
山中幸盛との連携
久綱は、尼子再興のために「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈ったと伝わる猛将・山中幸盛の伯父にあたる。二人は叔父と甥の間柄として結束し、毛利の大軍を相手に各地を転戦した。智の久綱と勇の幸盛の組み合わせは、尼子再興軍の象徴であった。
再興戦の終焉
天正六年(1578)、織田方として上月城に拠った尼子再興軍は、毛利の大軍に包囲されて孤立する。織田方の援軍が間に合わず上月城は落城し、尼子勝久は自害、山中幸盛も殺害されて再興の夢は潰えた。久綱はこの落城を生き延びたとも伝わるが、その後の消息には諸説あり、確実な史料は乏しい。主家の再興に生涯を捧げた忠臣として、その名は尼子氏の物語とともに記憶されている。
尼子再興の物語が遺したもの
尼子再興に賭けた立原久綱や山中幸盛らの戦いは、たとえ成就しなかったとはいえ、主家への忠義を貫いた武士たちの物語として後世に強い印象を残した。江戸時代以降、彼らの奮戦は軍記物や講談を通じて広く語り継がれ、山中鹿介の「七難八苦」の逸話とともに、忠臣の鑑として人々に親しまれた。頭脳として再興軍を支えた久綱の存在もまた、この不屈の物語に欠かせぬ一角を占めている。



















