せんの りきゅう
| 地域 | 近畿(和泉・堺) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 堺の商人・茶人(信長・秀吉の茶頭) |
| 大名家 | 千家 |
| 家紋 | つぼつぼ(千家) |
| 主武器 | ―(茶の湯) |
| 衣装・甲冑 | 茶人の道服・頭巾 |
| 武将タイプ | 茶聖 |
千利休(せんの りきゅう)は、堺の商家に生まれた茶人で、わび茶を大成した人物である。大永2年(1522年)に生まれ、天正19年(1591年)に亡くなった。もとの名は千宗易で、織田信長と豊臣秀吉の茶頭(茶の指南役)を務めた。秀吉の弟・豊臣秀長とともに政権を支えたが、最後は秀吉に切腹を命じられた。
3行でわかる千利休
- 堺の商家に生まれ、武野紹鴎らに茶を学んで、わび茶を大成した
- 信長、ついで秀吉の茶頭となり、天正13年(1585年)に「利休」の名を朝廷から与えられた
- 天正19年(1591年)、秀吉の怒りにふれて切腹した。理由は諸説あり、はっきりしない
目次
堺の商人から天下人の茶頭へ
利休は堺で魚問屋を営む家に生まれたとされる。若いころから茶の湯を学び、飾りを減らした静かな「わび茶」をきわめていった。信長が上洛して堺を押さえると、今井宗久・津田宗及とともに信長の茶頭となった。
秀吉と利休
信長の死後、利休は秀吉に重く用いられた。天正13年(1585年)、秀吉が御所で正親町天皇に茶をたてたとき、宗易は「利休」の名を与えられた。天正15年(1587年)の北野大茶湯でも中心となり、二畳の小さな茶室「待庵」(国宝、京都府大山崎町)を作ったともいわれる。大友宗麟は「内々のことは宗易に、公のことは宰相(秀長)に」と書き残しており、利休が政治にも大きな影響を持っていたことがわかる。
切腹の謎
天正19年(1591年)2月、利休は秀吉に切腹を命じられた。大徳寺の山門の上に利休の木像が置かれたことが理由の一つとされるが、茶道具の売り買いをめぐる疑い、秀吉との茶の湯の考え方のちがいなど、さまざまな説があり、本当の理由はわかっていない。同じ年の1月には秀長も亡くなっていた。くわしくは「千利休 ― わび茶を大成した茶聖」「信長と秀吉の茶の湯・文化を比較」で解説している。
千利休をめぐる人物
ゆかりの地
- 妙喜庵 待庵(京都府大山崎町):利休が作ったと伝わる国宝の茶室
- 大徳寺(京都市北区):山門の木像が切腹の理由の一つとされる寺
- さかい利晶の杜(大阪府堺市):利休と与謝野晶子を紹介する堺の文化施設










































