天下人はどんな地位で天下を治めたのか|清盛の太政大臣、頼朝の将軍、北条の執権、足利将軍、そして秀吉の関白【図解】

平清盛・源頼朝・足利将軍・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら天下人の群像(イメージ)

天下を動かした人たちは、どんな「肩書き」で天下を治めていたのでしょうか。平清盛は太政大臣、源頼朝は征夷大将軍、北条氏は執権、足利氏はふたたび将軍。そして豊臣秀吉は、武士でありながら公家の頂点である関白を選びました。

この記事では、平安時代の終わりから江戸時代の初めまで、天下の実権を握った人たちの「肩書き」と「本当の力の源」を並べてみます。すると、肩書きと実際の権力がいつも一致していたわけではない、という面白い姿が見えてきます。大河『豊臣兄弟!』で描かれる秀吉の関白就任を、歴史の流れのなかで読み解くための記事です。

先に結論

  • 天下人の肩書きは、朝廷の官職(太政大臣・関白)と武家の棟梁としての将軍の二つの道に分かれる
  • 北条氏の執権や三好長慶のように、トップの肩書きを持たずに実権を握った例も少なくない
  • 秀吉は将軍ではなく関白を選び、清盛以来の「公家の頂点から天下を治める」道を、武士として最も高いところまで進んだ
  • どの時代も、肩書きは権力を正当化する「看板」であり、本当の力の源は軍事力・領地・人脈だった
平清盛から徳川家康まで、天下を動かした人の肩書きの移り変わりの一覧図
天下を動かした人の「肩書き」の移り変わり
時代を超えて並ぶ天下人たち(イメージ)
時代を超えて並ぶ天下人たち(イメージ)
目次

天下人の肩書きは「二つの道」

武士が天下を治めるとき、その立場を正当化する肩書きには、大きく分けて二つの道がありました。

  • 朝廷の官職の道:太政大臣・関白など、天皇を支える公家社会の最高位につく。平清盛・足利義満(晩年)・豊臣秀吉がこの道
  • 武家の棟梁の道:征夷大将軍として幕府を開き、武士たちを束ねる。源頼朝・足利尊氏・徳川家康がこの道

どちらも、天皇から与えられる地位であることは同じです。天下人たちは、実力で国を押さえたうえで、朝廷から肩書きを受けることで「正しい支配者」であると示したのです。

平清盛 — 武士で初めて太政大臣に(1167年)

平清盛は、武士として初めて、朝廷の最高官である太政大臣にのぼりました。ただし太政大臣は名誉職に近く、清盛はわずか3か月ほどで辞めています。

清盛の本当の力は、肩書きよりも人脈にありました。娘の徳子を天皇の后とし、生まれた孫を安徳天皇として即位させ、天皇の祖父(外戚)として朝廷を動かしたのです。一門の者を次々と高い官職につけ、「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われました。これは、藤原氏が摂関政治で行ってきたやり方を、武士がなぞったものともいえます。

源頼朝 — 征夷大将軍と鎌倉幕府(1192年)

平氏を倒した源頼朝は、京都から離れた鎌倉に本拠を置きました。頼朝は一度、権大納言・右近衛大将という朝廷の高い官職を受けますが、すぐに辞め、建久3年(1192)に征夷大将軍となります。

頼朝の力の源は、主従関係を結んだ武士たち、つまり御家人でした。頼朝は御家人の領地を保証し(御恩)、御家人は頼朝のために戦う(奉公)。将軍という肩書きは、この「武士の棟梁」としての立場を表すものになっていきます。

北条氏 — 将軍の下の「執権」が実権を握る

頼朝の死後、鎌倉幕府の実権を握ったのは、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏でした。北条時政に始まり、義時・泰時と続く北条氏の肩書きは執権。これは将軍を補佐する幕府内の役職にすぎず、朝廷の官位も相模守・武蔵守といった国司クラスでした。

それでも北条氏は、京都から迎えた公家や皇族の将軍を「飾り」にして、幕府を思いのままに動かしました。承久の乱(1221)では朝廷の軍を破り、後鳥羽上皇らを流罪にするほどの力を持ちます。肩書きの高さと実際の力が、まったく一致しない典型的な例です。

足利将軍家 — 将軍と、将軍を退いた太政大臣

鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、暦応元年(1338)に征夷大将軍となり、京都に幕府を開きました。三代将軍・義満は、将軍職を子に譲ったあと太政大臣にもなり、武家と公家の両方の頂点に立ちます。明からは「日本国王」と呼ばれました。

しかし応仁の乱(1467〜)のあと、将軍の力は弱まっていきます。将軍を補佐する管領の細川氏や、さらにその家臣だった三好長慶が実権を握り、将軍が京都から追い出されることもたびたびありました。三好長慶の官位は修理大夫にすぎませんでしたが、将軍を追い出して畿内を支配したのです。「将軍」という肩書きがあっても、力がなければ天下は治められない時代になっていました。

織田信長 — 将軍も関白も選ばなかった天下人

足利義昭を将軍に立てて上洛した信長は、やがて義昭と対立し、元亀4年(1573)に京都から追放します(義昭はその後も将軍の職にはとどまりました)。信長は天正5年(1577)に右大臣となりますが、翌年には辞めてしまい、その後は朝廷の官職につきませんでした。

天正10年(1582)、朝廷は信長に「太政大臣・関白・征夷大将軍のどれにでもなってほしい」と持ちかけます(三職推任)。しかし信長がどれを選ぶのか答える前に、本能寺の変が起こりました。信長が何を考えていたのかは、今も謎のままです。

豊臣秀吉 — 武士でありながら関白に(1585年)

信長の死後、天下を引き継いだ秀吉が選んだのは、将軍ではなく関白でした。天正13年(1585)、秀吉は公家の近衛前久の猶子(形式上の子)となって関白に就任します。関白は、もともと五摂家と呼ばれる公家の名門だけがなれる地位でした。翌年には太政大臣となり、天皇から新しい姓「豊臣」を与えられます(くわしくは秀吉の関白就任と「豊臣」賜姓)。

なぜ将軍ではなく関白だったのか

  • 将軍の席が空いていなかった:足利義昭は追放されたあとも将軍の職にとどまっており、秀吉の時代も天正16年(1588)まで将軍だった
  • 武士だけでなく公家も従える立場:関白は天皇の代わりに政治を行う地位で、朝廷の権威で全国の大名を従えるのに都合がよかった
  • 家柄の問題:秀吉が源氏の血筋でないため将軍になれなかった、という話もよく語られるが、確かな根拠はなく、後世の説明とみられる

秀吉は関白の名で、大名どうしの争いを止めるよう命じ、従わない者は討つという形で天下統一を進めました。九州の島津氏や関東の北条氏への出兵も、「関白の命令に背いた」ことが理由とされています(沼田問題と北条氏)。

関白を譲って「太閤」に

天正19年(1591)、秀吉は甥の秀次に関白を譲り、自らは太閤(前の関白)と呼ばれるようになります。しかし実権は手放さず、太閤のまま朝鮮出兵などを指揮しました。肩書きを譲っても、本当の権力は自分が握る。これはのちの家康の「大御所」と同じやり方です。

弟・秀長は「大和大納言」

秀吉が関白となると、一族も次々と高い官職につきます。弟の秀長は大納言にまでのぼり、大和を治めたことから「大和大納言」と呼ばれました。武士の兄弟が、そろって公家社会の最上層に並んだのです(大和大納言・豊臣秀長)。

徳川家康 — ふたたび将軍の道へ(1603年)

関ヶ原の戦いに勝った家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。家康は秀吉の関白の道ではなく、頼朝以来の将軍の道を選んだのです。ところが家康は、わずか2年で将軍職を息子の秀忠に譲り、大御所として実権を握り続けます。将軍職は徳川家が代々継ぐものだ、と天下に示すためだったと考えられています。家康は亡くなる直前の元和2年(1616)に太政大臣にもなりました。

まとめ表 — 肩書きと「本当の力の源」

人物おもな肩書き本当の力の源
平清盛太政大臣天皇の外戚、一門の官職独占、日宋貿易の富
源頼朝征夷大将軍御家人との主従関係
北条義時・泰時執権幕府の実務と御家人のまとめ役、承久の乱の勝利
足利義満征夷大将軍→太政大臣守護大名の統制、公家社会との一体化、明との貿易
三好長慶修理大夫畿内と四国の軍事力
織田信長右大臣(のち無官)圧倒的な軍事力と経済力
豊臣秀吉関白・太政大臣→太閤軍事力と、関白の名による大名の統制
徳川家康征夷大将軍→大御所関ヶ原の勝利と、徳川家による将軍職の世襲

よくある質問

Q. 関白と征夷大将軍はどちらが偉い?

A. 朝廷の序列では、関白は公家の最高位で、天皇を補佐する立場です。征夷大将軍はもともと臨時の軍事指揮官の職で、序列だけで比べれば関白のほうが上です。ただ、鎌倉時代以降は「将軍=武士の棟梁」という意味が大きくなり、どちらが上かは時代によって受け止め方が違います。

Q. 秀吉はなぜ将軍にならなかった?

A. 足利義昭が将軍の職にとどまっていたこと、関白のほうが朝廷の権威で全国を従えるのに都合がよかったことなどが考えられます。「源氏でないから将軍になれなかった」という話は、確かな根拠のない後世の説明とみられます。

Q. 執権と将軍の違いは?

A. 将軍は鎌倉幕府のトップ、執権は将軍を補佐する役職です。しかし実際には、執権の北条氏が幕府を動かし、将軍は名目上のトップになっていました。

まとめ

平清盛の太政大臣、源頼朝の征夷大将軍、北条氏の執権、足利将軍家、そして豊臣秀吉の関白。天下を動かした人たちの肩書きは、時代ごとに違いました。共通しているのは、肩書きはあくまで権力を正当化する「看板」であり、本当の力の源は軍事力や人脈、経済力だったということです。そのなかで秀吉は、武士として初めて公家の頂点・関白にのぼり、その権威で天下統一を成し遂げました。大河『豊臣兄弟!』で描かれる兄弟の出世は、日本の歴史のなかでも、ほかに例のない「頂点」への道のりだったのです。

官職そのものの序列や仕組みについては、日本の歴史ガイドの関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣の序列と関白とは何かもあわせてどうぞ。

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