いせ さだおき
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 明智家臣 |
| 大名家 | 明智 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・大槍 |
| 衣装・甲冑 | 華美具足 |
| 武将タイプ | 名門・悲壮 |
伊勢貞興は室町幕府の政所執事を代々務めた名門・伊勢氏の当主である。足利義昭が京都を追われた後は明智光秀に仕え、故実や行政の知識で重く用いられた。天正10年(1582年)の山崎の戦いで羽柴秀吉の軍と戦い、討死した。
政所執事の家に生まれる
伊勢貞興は永禄2年(1559年)の生まれとされる。通称は与三郎。伊勢氏は室町幕府の政所(将軍家の財政や所領の訴訟を扱う役所)の長官である執事を代々務めた名門である。
父は伊勢貞良、兄は伊勢貞為。元亀元年(1570年)ごろ、貞興は足利義昭のもとで政所執事に任じられ、織田信長もこれを認めた。ただし実務は信長の側が握っていたとされる。
伊勢氏は、室町時代の中ごろに伊勢貞親が将軍足利義政の側近として権勢をふるったことで知られる。武家の礼法「伊勢流」の家としても名高い。戦国時代には祖父の伊勢貞孝が三好長慶と対立して討たれ、家の力は衰えていた。
明智光秀に仕える
天正元年(1573年)、義昭は信長に京都から追われた。貞興は他の旧幕臣とともに明智光秀に仕えた。幕府の故実(儀式や作法のしきたり)や行政に通じていたことから、光秀に重く用いられたとされる。光秀の娘婿になったとする説もある。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変では、二条御所の織田信忠を攻めたと伝わる。
光秀は丹波や山城で支配を広げる中で、旧幕臣を多く家臣団に迎えた。貞興もその一人で、京都周辺の事情に明るい旧幕臣は、光秀の畿内支配に欠かせない存在だった。
本能寺の変では、明智軍の一部が二条御所に籠もった織田信忠を攻め、信忠は自害した。貞興はこの攻撃に加わったとされるが、その働きの詳細は軍記物による。
山崎の戦いで討死
同年6月13日、光秀は山崎で秀吉の軍を迎え撃った。貞興は2千余の兵を率いて戦い、中川清秀の隊と激しくぶつかったとされる。
しかし明智軍は兵力で劣り、敗れた。貞興はこの戦いで討死した。24歳であった。
伊勢氏の家督は、兄の貞為の系統などに受け継がれたとされ、江戸時代には旗本として続いた。
ゆかりの地
- 天王山・山崎合戦古戦場(京都府乙訓郡大山崎町):貞興が討死した山崎の戦いの舞台





















