佐伯惟定 | 栂牟礼城主。豊薩合戦で降伏を拒み島津家久の軍を撃退、のち藤堂高虎に仕えて大坂の陣で先鋒をつとめた

佐伯惟定

さえき これさだ

地域九州(豊後)
所属勢力・属性大友家の家臣、のち藤堂高虎の家臣
大名家大友家 → 藤堂家
家紋不明
主武器采配・槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ籠城と奇襲の名手・不屈の城主

佐伯惟定(さえき これさだ)は、豊後の大友家に仕えた武将で、海部郡の栂牟礼城(とがむれじょう、いまの大分県佐伯市)の城主です。天正14年(1586)、島津家の大軍が豊後に攻め込んだ豊薩合戦で、周りの武将が次々に島津方につくなか、最後まで降伏を拒み、島津家久の軍を打ち破りました。大友家が改易されたあとは、豊臣秀長の跡を継いだ豊臣秀保を頼り、さらに藤堂高虎の家臣となって、大坂の陣でも先鋒をつとめています。

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目次

佐伯家とは ― 大友家より古い佐伯の領主

佐伯家は、豊後南部の佐伯荘を本拠とした一族です。平安時代から豊後に根を張った大神(おおが)氏の流れをくむとされ、鎌倉時代に大友家が豊後の守護として入ってくると、これに協力して重臣の列に加わりました。大友家の一族ではない「他紋衆」でありながら、佐伯の地を代々任されてきた家です。

戦国時代の初め、栂牟礼城を築いた佐伯惟治が大友家に背いたとされる「佐伯惟治の乱」が起き、一族は大きな打撃を受けました。惟定の祖父・惟教も、一時は謀反を疑われて伊予に逃れ、十数年を過ごしています。大友家との関係は、つねに順風満帆だったわけではありません。それでも佐伯家は最後まで大友家を支え続けました。

生い立ち ― 耳川で祖父と父を失う

惟定は永禄12年(1569)の生まれと伝わります。佐伯家は、大友家が豊後に入るよりも前から佐伯の地を治めてきた古い家で、大友家の重臣に数えられていました。

天正6年(1578)、大友家が島津家に大敗した耳川の戦いで、祖父の佐伯惟教と父の佐伯惟真がそろって討死します。このとき惟定はまだ10歳ほどでした。多くの家臣も失った佐伯家を、幼い惟定が継ぐことになります。島津家は、惟定にとって祖父と父の仇でもありました。

豊薩合戦 ― 降伏の使者を拒んで戦う

天正14年10月、島津家久が日向から豊後南部に攻め込むと、佐伯のまわりの城主たちの多くは島津方につきました。家久は惟定にも降伏をすすめる使者を送りましたが、惟定はこれをはねつけたと伝わります。家中で戦うか降るかを話し合ったとき、惟定の母が「覚悟を決めて戦うしかない」と言い切り、家臣たちもそれに従ったという話も残っています。惟定はこのとき18歳ほどでした。

惟定は、客将の山田宗昌を参謀に迎え、栂牟礼城の守りを固めます。

栂牟礼城 ― 佐伯の山城

栂牟礼城は、佐伯の町の西およそ3キロ、番匠川と支流が合わさる地点にそびえる栂牟礼山に築かれた山城です。大永元年(1521)ごろ、佐伯惟治が築いたと伝わります。山頂から尾根にかけて曲輪が並び、尾根を断ち切る堀切や、斜面に沿って掘られた竪堀が数多く残っています。発掘調査も行われ、戦国時代の山城の姿をよく伝える城跡です。

城の下には佐伯湾に面した良港があり、海と川を押さえる要地でした。島津軍にとって、ここを落とせなければ豊後南部を安心して通ることはできなかったのです。

堅田合戦 ― 城を出て島津軍を破る

11月4日、栂牟礼城に迫った島津軍を、惟定は城の近くの堅田(かただ)で迎え撃ち、これを打ち破りました。堅田合戦です。城にこもるだけでなく、地の利を生かして城外で待ち伏せたことが勝因だったといわれます。

さらに12月4日には、家臣の高畑新右衛門が、島津方に寝返っていた柴田紹安の星河城を攻め落とし、紹安の妻子を捕らえました。これに動揺した紹安は大友方に戻ろうとしましたが、その動きに気づいた島津方に殺されてしまいます。

12月18日には、因尾谷(いんびだに)で島津軍の輸送部隊を襲い、全滅させました。地元の因尾衆を率いた柳井左馬助が、島津方の大将・戸高将監を討ち取ったと伝わります。同じ12月12日には、北の戸次川の戦いで豊臣方の援軍が大敗し、府内が島津の手に落ちていました。豊後の大半が島津に押さえられるなかで、佐伯は島津の補給線をおびやかし続けたのです。

朝日嶽城の奪回と、島津軍への追撃

年が明けた天正15年(1587)2月、惟定は島津方に奪われていた朝日嶽城を取り返します。3月、豊臣秀長の大軍が九州に入り、島津軍が日向へ引き揚げ始めると、惟定は退却する家久軍を追撃しました。ただし、撤退をめざす島津軍は大きく反撃せずに日向へ去ったため、この追撃を大勝利とまでいうのは言いすぎだとする見方もあります。

惟定が手柄として手に入れた唐物の茶入は、のちに「佐伯肩衝(さえきかたつき)」と呼ばれる名品になったという話も伝わっています。九州平定のあと、惟定の働きは秀吉にも認められ、感状(手柄をたたえる書状)を受けました。

大友家の改易 ― 秀長の家から藤堂家へ

文禄2年(1593)、主君の大友義統が朝鮮出兵での失態をとがめられて改易されると、惟定も栂牟礼城を失いました。このとき惟定は、言い訳をせずに城を明け渡したといわれます。同じように島津の大軍をはね返した岡城の志賀親次も、同じ年に岡城を去っています。なお惟定の妻は、志賀親度の娘、つまり親次の姉妹だったとされます。

浪人となった惟定が頼ったのは、豊臣秀長の跡を継いで大和郡山の城主となっていた豊臣秀保でした。秀保が文禄4年(1595)に亡くなると、秀長・秀保に仕えていた藤堂高虎が惟定を客将として招きます。九州で島津と戦った惟定は、こうして秀長の家とつながる縁で、新しい主君を得たのです。

藤堂高虎の家臣として ― 伊予から伊勢へ

高虎が伊予の宇和島に移ると、惟定もこれに従い、2,000石を与えられました。慶長の役では朝鮮に渡って海戦で手柄をあげ、加増を受けています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのときは、宇和島城の留守を任されました。

その後、高虎が伊勢・伊賀に移ると、惟定は高虎の城づくりの普請にも加わり、津の城下には「佐伯町」が開かれたといわれます。

慶長19年(1614)の大坂冬の陣にも出陣し、翌年の夏の陣では、藤堂家の先鋒が大きな損害を受けたため、藤堂高吉とともに急きょ先鋒をつとめました。戦後に加増され、4,500石を領するまでになります。元和4年(1618)、50歳で亡くなりました。佐伯家は子の惟重が継ぎ、藤堂家の家臣として明治まで続いています。

惟定の人物像 ― 若き城主を支えた家臣と母

惟定は10歳ほどで家を継ぎ、18歳ほどで島津の大軍と戦いました。若い城主が戦い抜けた背景には、覚悟を決めて戦うよう説いた母や、参謀の山田宗昌、因尾衆を率いた柳井左馬助など、まわりの人びとの力がありました。惟定は、そうした人びとの力をうまく生かすことのできる城主だったといえます。

大友家が滅んだあとも、秀保、高虎と主君を替えながら、九州で磨いた戦の腕で生き抜きました。島津と戦って名を上げた大友家の家臣のなかで、子孫が武士として明治まで続いた家は多くありません。その意味で惟定は、主家の没落を乗り越えた数少ない武将の一人でした。

佐伯惟定をめぐる人物

ゆかりの地

  • 栂牟礼城跡(大分県佐伯市):惟定が島津家久の軍を退けた居城
  • 岡城跡(大分県竹田市):義兄弟の志賀親次が島津義弘の軍を退けた城
  • 津城跡(三重県津市):藤堂家の家臣となった惟定が普請にかかわった城
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