岩石城の戦いをわかりやすく解説|難攻不落の城はなぜ1日で落ちたのか ― 蒲生氏郷・前田利長の猛攻と秋月種実の降伏【豊臣兄弟!第42回】

岩石城を攻め上る豊臣方の軍勢(イメージ)

天正15年(1587)4月1日、九州へ攻めこんだ豊臣秀吉の本隊は、豊前(いまの福岡県東部)の岩石城(がんじゃくじょう)を攻めました。岩石城は標高454mの岩山の頂にある堅い城で、筑前の大名・秋月種実がたのみにする城の一つでした。ところが蒲生氏郷・前田利長らに攻められた城は、わずか1日で落ちます。この落城を知った秋月種実は戦わずに降伏し、島津方についていた九州の国衆が次々と秀吉に降るきっかけになりました。岩石城の戦いを、登場する武将と戦いの流れから、わかりやすく解説します。

先に答え

岩石城の戦いは、九州征伐で秀吉の本隊が、島津方の秋月種実の城・岩石城を攻めた戦いです(天正15年4月1日)。城兵は約3,000、先鋒の蒲生氏郷・前田利長の軍は約5,000とされます。険しい山城で、素通りしてもよいという声もあったといいますが、秀吉はあえて攻めさせ、城はその日のうちに落ちました。

「難攻不落の城が1日で落ちた」という知らせに、種実は益富城を捨てて本拠の古処山城に退き、秀吉が一夜で城を築いたように見せた「益富の一夜城」にも驚いて、4月3日に頭をそって降伏しました。秀吉は戦いを広げずに筑前を手に入れ、九州の国衆の多くが戦わずに降っていきます。

岩石城の戦いの基本データ

いつ 天正15年(1587)4月1日
どこ 豊前国田川郡の岩石城(いまの福岡県田川郡添田町・赤村の境、岩石山の山頂)
対立 秋月種実の城兵(城将は熊井越中守・芥田悪六兵衛と伝わる)× 豊臣秀吉の本隊(先鋒は蒲生氏郷・前田利長)
兵力 城兵 約3,000、攻め手の先鋒 約5,000。後ろには秀吉の本隊の大軍がいた(いずれも通説)
結果 豊臣方の勝利。城は1日で落ち、城将らは討死
この後 4月3日、秋月種実が降伏。名物の茶入「楢柴肩衝」などを差し出す。島津方の九州の国衆が次々と秀吉に降る
岩石城を攻め上る豊臣方の軍勢(イメージ)
岩石山の頂の岩石城に攻め上る豊臣方の軍勢(イメージ)

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目次

岩石城の戦いの年表

年月日 おもな出来事
天正14年(1586)7月 島津軍が筑前に攻めこみ、岩屋城の高橋紹運が討死。秋月種実も島津方として動く
天正14年12月 戸次川の戦い。秀吉が先に送った四国勢が島津に大敗する
天正15年(1587)3月1日 秀吉が大坂を出て、九州へ向かう(九州征伐)
天正15年3月下旬 赤間関(下関)で軍議。豊臣秀長の軍は豊後から日向へ、秀吉の本隊は筑前・肥後から薩摩へ進むと決まる。秀吉は小倉に上陸する
天正15年4月1日 岩石城の戦い。蒲生氏郷・前田利長らが攻め、城は1日で落ちる
天正15年4月2日夜〜3日朝 秋月種実が益富城を捨てて古処山城に退く。秀吉は益富城を一夜で直したように見せ、かがり火で大軍を見せつける(益富の一夜城)
天正15年4月3日 秋月種実が降伏。頭をそり、茶入「楢柴肩衝」と刀を秀吉に差し出す
天正15年4月17日 日向で秀長の軍が島津軍を破る(根白坂の戦い)
天正15年5月8日 島津義久が降伏する
天正15年6月 九州の国分け。秋月家は筑前を離れ、日向の財部(のちの高鍋)へ移される

なぜ岩石城が攻められたのか ― 秋月種実と秀吉の「見せしめ」

秋月種実は、筑前の古処山城を本拠とする国衆です。父を大友氏に討たれた種実は、毛利氏や島津氏と結んで大友氏と戦い続け、筑前・豊前に30を超える城を持つほどの勢力になっていました。岩石城も、天正13年(1585)に種実が大友方から奪った城です。島津氏が九州をのみこもうとすると、種実は島津方につき、秀吉の停戦の命令にも従いませんでした。

秀吉の本隊が小倉から筑前へ向かうと、岩石城はちょうどその行く手にありました。山頂の城は岩場に囲まれ、まともに攻めれば時間も兵も失います。そのため「この城は放っておいて先へ進むべきだ」という意見もあったと伝わります。しかし秀吉は、あえて岩石城を攻めさせました。秋月方が一番たよりにする堅い城を短い時間で落とせば、ほかの城の者たちは戦う気をなくす。九州の国衆たちに豊臣の力を見せつける、見せしめの城攻めでした。

立場 考え
秋月種実 島津方として秀吉に抵抗する。岩石城のような山城にこもれば、遠くから来た大軍も簡単には攻め落とせない
豊臣秀吉 九州の国衆に力の差を見せつけ、なるべく戦わずに降らせたい。そのために堅い城を一気に落とす
九州の国衆 島津につくか、秀吉につくか。どちらが勝つのかを見きわめようとしている

兵力くらべ ― 3,000の城兵と、5,000の先鋒

岩石城の戦いの兵力(通説)

豊臣方の先鋒(蒲生氏郷・前田利長ら)約5,000
岩石城の城兵(秋月方)約3,000

数だけ見ると大きな差ではありません。山城にこもる側は、ふつうは攻め手の何倍もの力を出せるといわれます。それでも城が1日で落ちたのは、先鋒の後ろに秀吉の本隊の大軍が控えていたこと、そして鉄砲をそろえた攻め手が休まず攻め続けたためとされます。九州へ渡った秀吉の軍は、秀長の軍とあわせて20万を超えたともいわれます。

岩石城の戦いに登場した主な武将(秋月方)

人物 立場 この戦いでの動き
秋月種実 筑前・古処山城の城主。島津方 岩石城の落城を知り、益富城から古処山城へ退く。4月3日、頭をそって降伏
秋月種長 種実の子 父とともに秀吉に降る。のちに日向の高鍋藩の初代藩主となる
高橋元種 種実の子。豊前の香春岳城主、高橋家の養子 秋月家とともに島津方についていたが、父に続いて秀吉に降る
熊井越中守・芥田悪六兵衛 岩石城を守った秋月家の家臣と伝わる 約3,000の城兵で城を守るが、1日で城を落とされ、討死したとされる

岩石城の戦いに登場した主な武将(豊臣方)

人物 立場 この戦いでの動き
豊臣秀吉 関白。九州征伐の総大将 本隊を率いて小倉から筑前へ進み、岩石城を攻めさせる。秋月種実の降伏を受け入れる
蒲生氏郷 伊勢松ヶ島の大名(32歳) 先鋒として岩石城を攻める。自ら先頭に立って戦う大将として知られる
前田利長 前田利家の嫡男(26歳) 氏郷とともに先鋒を務め、岩石城を攻める
黒田孝高(官兵衛) 秀吉の軍師。九州征伐では先に九州へ渡って準備を進めた 豊前の国衆を秀吉方に引き入れる。戦後、豊前の6郡を与えられる
豊臣秀長 秀吉の弟。もう一方の軍の大将 同じころ、豊後から日向へ進み、島津軍と戦う

岩石城の戦いの流れ ― 小倉上陸から秋月種実の降伏まで

小倉・岩石城・益富城・古処山城の位置関係図
秀吉の本隊と秀長の軍の進路(イメージ図)。岩石城は小倉から筑前へ向かう道の途中にあった

① 3月下旬 ― 秀吉、九州へ上陸

天正15年3月1日に大坂を出た秀吉は、3月下旬、赤間関で軍議を開きました。秀長の軍は豊後から日向をへて薩摩へ、秀吉の本隊は筑前から肥後をへて薩摩へ。二手に分かれて島津を南へ追いつめる作戦です。小倉に上陸した秀吉は、豊前の国衆を従えながら南へ進みました。目の前に立ちはだかったのが、秋月方の岩石城でした。

② 攻めるか、素通りするか

岩石城は、岩石山の山頂に築かれた城です。山頂は標高454m、ふもととの高さの差は約380mあり、まわりは名前のとおり岩場に囲まれています。平安時代の末に平清盛が築かせたという古い伝えもあり、大友・大内・秋月と城の持ち主が何度も代わった、豊前と筑前の境目の要の城でした。秋月方はこの城に約3,000の兵を入れ、豊臣の大軍を食い止めようとしていました。

堅い城に手間取れば、九州の国衆たちは「秀吉もたいしたことはない」と考えかねません。一方、この城を一気に落とせば、秋月方はもちろん、島津方のほかの城も戦う気をなくすはずです。秀吉は攻めると決め、先鋒に蒲生氏郷と前田利長を立てました。

③ 4月1日 ― 一斉攻撃

4月1日、豊臣方は岩石城に攻めかかりました。攻め手はそろえた鉄砲で城に弾を撃ちこみながら、険しい山道を登っていきます。城兵も岩場を頼りに防ぎましたが、攻め手は次から次へと新しい兵を送りこみ、休む間を与えませんでした。

④ 先頭を駆ける蒲生氏郷

鯰尾の兜で先頭を駆ける蒲生氏郷(イメージ)
銀の鯰尾の兜をかぶり、一騎駆けのように先頭を駆ける蒲生氏郷(イメージ)

先鋒の蒲生氏郷は、大名でありながら自ら先頭に立って戦うことで知られた武将です。氏郷については、新しく家来になった者に「戦場では、銀の鯰尾の兜をかぶった武者に遅れをとるな」と言い聞かせ、いざ戦が始まると、その兜をかぶって真っ先に敵へ突っこんでいったのは氏郷自身だった、という話が伝わります。大将が先頭を駆ければ、家来たちも負けてはいられません。岩石城の攻撃でも、氏郷の軍は激しく城に迫ったといわれます。

⑤ 1日での落城

城はその日のうちに落ちました。城を守った熊井越中守・芥田悪六兵衛らは討死し、多くの城兵が命を落としたとされます(討たれた数は400ほどとする話もあります)。秋月方が一番たのみにしていた城が、たった1日で落ちたのです。

⑥ 益富の一夜城と、秋月種実の降伏

益富の一夜城とかがり火(イメージ)
一夜で現れた益富城と、村々に広がるかがり火(イメージ)

岩石城落城の知らせは、秋月種実を大きくゆさぶりました。種実は益富城(いまの福岡県嘉麻市)を捨てて、本拠の古処山城に退きます。秀吉は益富城に入ると、4月2日の夜、まわりの村々に数えきれないほどのかがり火をたかせました。夜が明けると、壊されていたはずの益富城が、白壁の城となってよみがえっていたように見えました。実は、戸板やふすま、畳などを集めて城に見せかけたもので、滝のように見えた水は白米を流したものだったと伝わります。

古処山城からこれを見た種実は、「一夜で城を築くとは、秀吉は人ではなく鬼神だ」と驚いたといいます。4月3日、種実は頭をそって降伏し、天下の名物として知られた茶入「楢柴肩衝」と刀を秀吉に差し出し、娘を人質に出しました。こうして秀吉は、筑前の大きな勢力だった秋月家を、ほとんど戦わずに従えたのです。

なぜ岩石城は1日で落ちたのか

理由 内容
大軍の力 先鋒の後ろに秀吉の本隊が控え、攻め手は兵を次々に入れかえて休まず攻められた。城兵には援軍の見こみがなかった
鉄砲の数 豊臣方はたくさんの鉄砲をそろえており、城に弾を撃ちこみながら攻め上った
先鋒の勢い 自ら先頭に立つ蒲生氏郷と、若い前田利長が先鋒を争うように攻めた
秋月方の油断 堅い城だから簡単には落ちないという思いがあったが、豊臣の大軍がここまで激しく攻めてくるとは考えていなかったとみられる

岩石城の落城は、一つの城が落ちたという以上の意味を持ちました。九州の国衆たちは、豊臣の軍がこれまで戦ってきた大友や島津とは比べものにならない力を持っていることを知ります。秋月種実の降伏ののち、筑前・筑後・肥後の国衆は次々と秀吉に降り、秀吉の本隊はほとんど戦わずに薩摩の近くまで進みました。

岩石城の戦いのその後

人物・城 その後
秋月種実 九州の国分けで筑前を離れ、日向の財部(のちの高鍋)に移される。慶長元年(1596)に亡くなる
秋月種長 関ヶ原の戦いでは西軍から東軍に転じて家を守り、高鍋藩の初代藩主となる。秋月家は江戸時代を通じて高鍋藩主として続く
高橋元種 日向の県(延岡)に移される。のちに罪人をかくまったとして改易される
蒲生氏郷 天正18年(1590)の小田原征伐ののち、会津に移され、92万石の大大名となる
前田利長 のちに父・利家のあとを継ぎ、加賀前田家の2代目となる
楢柴肩衝 「天下三肩衝」の一つに数えられる名物の茶入。秀吉のものとなる
岩石城 九州征伐ののち、豊前の毛利勝信の家臣が入る。関ヶ原の戦いのあとは細川家の城となり、元和の一国一城令で廃城となる。いまも山頂に石垣や堀切が残る

筆者のひとこと

蒲生氏郷については、本で読んだ話が強く印象に残っています。氏郷は新しく仕えた家臣に「戦場では、銀の鯰尾の兜をかぶった武者に遅れをとるな」と言ったそうです。いざ戦が始まり、その家臣が先陣に出ると、一騎駆けのように敵へ突っこんでいく武者がいる。それが、ほかならぬ氏郷本人だったという話です。

岩石城攻めでも、その氏郷が先鋒をつとめました。堅い城がたった1日で落ちたすさまじさを見て、秋月種実は戦うことをあきらめたのではないでしょうか。この城攻めが、秋月家の降伏の大きなきっかけになったのだと思います。

まとめ

岩石城の戦いは、九州征伐で秀吉の本隊が、島津方の秋月種実の城・岩石城を攻めた戦いです。標高454mの岩山にある堅い城で、素通りすべきという声もありましたが、秀吉はあえて攻めさせ、蒲生氏郷・前田利長らの先鋒が天正15年4月1日のうちに城を落としました。この落城と「益富の一夜城」に驚いた秋月種実は、4月3日に降伏します。一つの城を見せしめに一気に落とすことで、九州の国衆に豊臣の力を見せつけ、ほとんど戦わずに九州の北半分を従えた、秀吉らしい城攻めでした。

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