慶長5年(1600年)9月15日、美濃の関ヶ原で天下分け目の決戦が行われていたころ、遠く離れた東北でも、東軍と西軍に分かれた大名たちが激しく戦っていました。会津の上杉景勝と、山形の最上義光・仙台の伊達政宗がぶつかった一連の戦いは、「北の関ヶ原」と呼ばれます。中でも上杉軍の名将・直江兼続が最上領に攻め込んだ慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)と、長谷堂城の戦いがよく知られています。この記事では、上杉・最上・伊達の三家に加えて、どちらにつくか揺れ動いた東北の小さな大名たちの動きまで、わかりやすく解説します。
| いつ | 慶長5年(1600年)7月〜10月。上杉軍の最上領侵攻は9月8日〜10月4日 |
|---|---|
| どこ | 出羽国(山形県)の長谷堂城・畑谷城・上山城、陸奥国(宮城県・福島県)の白石城・福島城など |
| 誰と誰 | 上杉景勝・直江兼続(西軍側) 対 最上義光・伊達政宗(東軍) |
| 兵力 | 最上領に攻め込んだ上杉軍は約2万(長谷堂城を囲んだ兼続の本隊は約1万8千とされる)。最上軍は全体で約7千、長谷堂城の守備兵は約1千 |
| 結果 | 長谷堂城は落ちず、関ヶ原での西軍敗北を知った上杉軍は撤退 |
| この後 | 上杉家は会津120万石から米沢30万石へ。最上家は57万石の大大名に。佐竹家は秋田へ移され、小野寺・相馬・岩城家は領地を失った |
北の関ヶ原を3行でいうと
- 家康が上杉景勝を討とうとした「会津征伐」の途中で石田三成が挙兵し、東北は上杉対最上・伊達の戦場になった
- 直江兼続の上杉軍が最上領に攻め込んだが、長谷堂城を落とせないうちに関ヶ原で西軍が敗れ、撤退した
- どちらにつくかで迷った東北の小さな大名たちは、戦いのあと明暗が大きく分かれた
なぜ東北で戦いが起きたのか — 会津征伐
豊臣秀吉が亡くなったあと、会津(福島県)120万石の上杉景勝は、城や道の整備を進めました。これを謀反の準備だと問題にした徳川家康に対し、景勝の重臣・直江兼続が反論の手紙を送ったとされます(いわゆる「直江状」。どこまで本物かは議論があります)。
慶長5年6月、家康は上杉家を討つため大軍を率いて江戸を出ました。これが「会津征伐」です。東北の大名たちも、最上義光を中心に、北や東から会津へ攻め込む手はずでした。
ところが7月、上方で石田三成が挙兵したという知らせが届きます。家康は下野の小山で会議を開き、軍を西へ返しました。こうして東北には、上杉家と、その周りの東軍の大名たちが残されたのです。
上杉軍、最上領へ — 畑谷城の悲劇

家康が西へ向かったことで、上杉家は背後を気にする必要がなくなりました。9月8日、直江兼続は約2万の兵を率い、米沢と庄内の二方向から最上領へ攻め込みます。
最初に攻撃を受けたのは、山形への入り口にあたる畑谷城でした。義光は城を捨てて引くよう命じましたが、城将の江口光清はこれに従わず、わずか数百の兵で戦って城とともに討ち死にしました。上杉軍の側にも多くの死傷者が出たといいます。
長谷堂城の戦い — 1千で1万8千を防いだ城

9月15日、兼続の本隊は山形城の南西にある長谷堂城を囲みました。長谷堂城を落とせば、義光のいる山形城は目の前です。城を守る最上家の重臣・志村光安の兵はわずか1千ほど。対する上杉軍は1万8千といわれます。
城は小高い山の上にあり、まわりの田んぼには水が張られて、大軍が近づきにくくなっていました。志村光安は、夜に決死隊を率いて上杉の陣に斬り込み、敵を混乱させたと伝わります。最上家の勇将・鮭延秀綱の奮戦も、のちに兼続がほめたたえたといいます。
長谷堂城の南東の上山城でも、最上方は城の外に伏兵を置いて上杉軍を挟み撃ちにし、上杉方の大将を討ち取りました。
伊達政宗の援軍と、白石城
伊達政宗は、家康が西へ向かう前の7月に、上杉方の白石城(宮城県白石市)を攻め落としていました。その後は上杉家といったん和睦していましたが、義光の求めに応じて、叔父の留守政景に3千の兵をつけて山形へ送ります。9月下旬、伊達の援軍が山形城の東に着陣し、最上方は大いに勢いづきました。
ただ、伊達の援軍は様子をうかがって、積極的には戦わなかったともいわれます。政宗には、最上家と上杉家が戦って弱ったところで有利に立ちたいという思惑があった、とみる見方もあります。


関ヶ原の知らせと、兼続の撤退戦

9月29日、兼続は長谷堂城に総攻撃をかけますが、それでも城は落ちません。その日、関ヶ原で西軍が一日で敗れたという知らせが届きました。兼続は撤退を決めます。
10月1日、最上・伊達軍は退く上杉軍を激しく追撃しました。兼続は自ら殿(しんがり=最後尾で追手を防ぐ役)をつとめ、大きな損害を出さずに米沢へ引き上げたとされます。この撤退戦は、のちに敵の義光からも見事だったとほめられたと伝わります。上杉軍に加わっていた前田利益(前田慶次)が殿で活躍したという話も有名ですが、これは後の時代の軍記物などに見える話です。
追撃の中で、義光自身も兜に鉄砲の弾を受けたといいます。その後、最上軍は上杉領だった庄内へ攻め込み、翌年には庄内を取り戻しました。
揺れ動いた東北の小大名たち
北の関ヶ原では、上杉・最上・伊達の三家だけでなく、出羽や陸奥の小さな大名たちも、どちらにつくかの判断を迫られました。その選択が、戦いのあとの運命を大きく分けます。
- 秋田実季(出羽・秋田):東軍として動いたが、義光の指示に従わず、家康に直接使者を送ったうえで小野寺氏を攻めた。これがもとで義光と対立する
- 小野寺義道(出羽・横手):上杉方に通じたとされ、最上方の湯沢城などを攻めた。戦後、領地を取り上げられ(改易)、石見の津和野に流された
- 戸沢政盛・六郷政乗・本堂茂親ら(出羽・仙北):家康の指示で東軍として動き、戦後は領地を守った(のちに常陸などへ移される)
- 佐竹義宣(常陸・水戸):父の義重が東軍を勧めたのに、石田三成と親しかった義宣ははっきりした態度を示さなかった。戦後、54万石の常陸から、出羽の秋田(のち20万石)へ移された
- 相馬義胤(陸奥・相馬)と岩城貞隆(陸奥・岩城):佐竹家と近い関係にあり、東軍につかなかったとして一度は領地を取り上げられた。相馬家はのちに旧領に戻ることを許され、岩城家ものちに大名として復活した
- 南部利直(陸奥・盛岡):最上家の援軍に向かったが、留守中に領内で和賀忠親らが一揆を起こし(岩崎一揆)、急いで引き返した。この一揆の裏には伊達政宗がいたとされ、政宗が家康の信頼を失う原因になった
戦いのあと — 勝ち組と負け組
西軍についた上杉景勝は、家康に降伏して会津120万石から米沢30万石に減らされました。それでも家は残り、米沢藩上杉家として幕末まで続きます。
上杉軍を食い止めた最上義光は、庄内や由利を加えて57万石の大大名になりました。一方、伊達政宗は、家康から約束されたとされる「百万石のお墨付き」を反故にされ、自分で取った白石などがわずかに加わっただけでした。南部領での一揆を後押ししたことが問題にされたためとされます。
北の関ヶ原は、関ヶ原本戦の陰に隠れがちですが、東北の大名配置を大きく変え、江戸時代の東北の形をつくった戦いでした。


北の関ヶ原のゆかりの地


- 長谷堂城跡(山形県山形市長谷堂):城山の上に曲輪や堀の跡が残る。ふもとに案内施設がある
- 山形城跡(霞城公園)(山形市):最上義光の居城。本丸の一部や二の丸の門が復元されている
- 畑谷城跡(山形県山辺町):江口光清が討ち死にした城
- 白石城(宮城県白石市):政宗が上杉方から奪った城。のち伊達家の重臣・片倉家の城となり、天守に当たる三階櫓が木造で復元されている
- 米沢城跡(山形県米沢市):減封後の上杉家の居城。上杉神社がある
筆者のひとこと
最上義光は、戦上手というよりは外交や戦略にすぐれた人物だったのではないかと思います。もっとも、大きな鉄の指揮棒を持って戦の指示をしたとも伝わりますが。
米沢で上杉景勝と直江兼続の主従像を見ると、二人の関係がとてもよくわかります。本当に馬が合い、それぞれの持つ性格が互いにとって心地よく、だからこそうまく役割分担ができたのだろうと感じました。
この戦いに登場した主な武将(上杉方)
この戦いに登場した主な武将(最上・伊達方)
※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。









































