大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公は、秀吉の弟・豊臣秀長です。では、織田信長の弟たちはどんな人生を送ったのでしょうか。信長には十数人の兄弟がいたとされますが、天下取りを支える「右腕」になった弟はいませんでした。一方、豊臣秀吉にはほぼ秀長ひとりしか弟がいませんでしたが、その秀長が政権の要になりました。この記事では、二つの家の「弟」のあり方を比べます。
この記事に登場するおもな武将
ひと目でわかる比較表
| 信長の弟たち | 秀吉の弟・秀長 | |
|---|---|---|
| 人数 | 十数人の兄弟がいたとされる(数は諸説) | 弟は秀長ひとり(同じ父か、父がちがうかは諸説) |
| 兄との関係 | 同母弟の信勝は家督を争い、信長に殺された | 若いころから兄を支え、一度も背かなかった |
| おもな役割 | 一門衆として城を守り、戦に出る | 一軍の大将、四国攻めの総大将、大名との取り次ぎ |
| 出世のいただき | 信包は伊勢の大名、長益は茶人として知られる | 大和・紀伊・和泉で約100万石、従二位権大納言(大和大納言) |
| 兄の天下での位置 | 重臣たちの下で、天下取りの中心にはいなかった | 政権のナンバー2。「公儀のことは宰相(秀長)に」といわれた |
| その後 | 信治・信興は戦で死去。信包・長益は秀吉や家康のもとで生き残った | 兄より先、1591年に亡くなる。その後の豊臣家は揺らいでいく |
信長の弟たち:争い、戦い、生き残る
織田信勝(信行):兄と家督を争った同母弟
信長と同じ母を持つ信勝は、父・信秀の死後、柴田勝家らに支えられて信長と家督を争いました。弘治2年(1556年)の稲生の戦いで敗れて許されたものの、ふたたび謀反を疑われ、弘治3年(1557年)ごろ清須城で殺されたとされます。信勝の子・織田信澄は、のちに信長に重く用いられました。
戦で命を落とした弟たち
元亀元年(1570年)は、信長の弟たちにとってつらい年でした。織田信治は、浅井・朝倉軍と戦った宇佐山城の戦いで森可成とともに討死し、織田信興は長島一向一揆に城を攻められて自害しています。秀孝という弟は、それより前の弘治元年(1555年)に、叔父の家臣に誤って射殺されました。
生き残った弟:信包と長益(有楽斎)
織田信包は伊勢の長野家を継いで伊勢の一部をおさめ、信長の死後は秀吉に従って大名として生き残りました。織田長益は、本能寺の変のとき信忠のそばにいながら逃れたことで知られ、のちに茶人「有楽斎」として名を残します。関ヶ原の戦いでは家康方につき、大坂の陣の前に大坂城を去りました。信長の兄弟については織田信長の兄弟をわかりやすく解説でくわしく紹介しています。
秀吉の弟・秀長:ただ一人の右腕
秀長は天文9年(1540年)、尾張中村に生まれました。兄が織田家で出世していくなか、そのそばで兵をまとめ、留守をあずかり、戦では一軍を率いました。天正5年(1577年)からの但馬攻めでは大将を務め、賤ヶ岳の戦いでは兄が離れているあいだ前線を守っています。
天正13年(1585年)の四国攻めでは、病気などで出陣をやめた秀吉に代わって総大将となり、長宗我部元親を降しました。その後、大和・紀伊・和泉をあわせて約100万石を与えられ、大和郡山城に入ります。大名たちのもめごとを取り次ぎ、大友宗麟が「公儀のことは宰相(秀長)に」と書き残したように、豊臣政権の要でした。天正19年(1591年)1月、兄より先に郡山で亡くなっています。秀長の家臣団は豊臣秀長の家臣一覧、補佐役としての評価は豊臣秀長はなぜ「天下一の補佐役」だったのかでまとめています。
年表で見る弟たちの運命

なぜ違いが生まれたのか
1. 信長には、弟に頼らなくてよい家臣と息子がいた
信長は、柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀・羽柴秀吉といった実力のある家臣を方面軍の大将にし、嫡男の信忠や信雄・信孝ら息子たちを一門の中心にしました。弟が天下取りの中心に立つ場面は、もともと少なかったのです。
2. 兄弟の争いを経験していた
家督を弟と争い、命まで奪った信長にとって、兄弟は「支え合う相手」である前に「競う相手」でもありました。一門に大きな力を持たせすぎないことは、家を守る知恵でもあったといえます。
3. 秀吉には、弟しかいなかった
農民の出から出世した秀吉には、古くから仕える家臣も、頼れる親族もほとんどいませんでした。自分の子もなかなか生まれません。だからこそ、生まれたときから一緒の弟・秀長が、何でも任せられるただ一人の存在になりました。
強さと弱さをくらべる
信長の一門の強さと弱さ
- 強さ:弟たちに頼らず、家臣と息子の力で天下取りを進められた。弟の一人がいなくなっても家は揺らがなかった
- 弱さ:信長と信忠が本能寺で同時に死ぬと、家をまとめられる年長の一門がいなかった
秀吉の一門の強さと弱さ
- 強さ:秀長という信頼できる右腕がいて、兄が前に出て弟が裏をまとめる役割分担ができた
- 弱さ:秀長ひとりに頼っていたため、その死の打撃が大きかった。秀長の死後、利休の切腹、秀次事件、朝鮮出兵と、政権は不安定になっていく
まとめ
信長の弟たちは、兄と争い、戦で散り、あるいは静かに生き残りました。秀吉の弟・秀長は、兄のただ一人の右腕として天下を支え、兄より先に世を去りました。兄弟の関係のちがいは、そのまま織田家と豊臣家の強さと弱さにつながっています。ほかの家の「支える弟」は香宗我部親泰 ― 長宗我部版の秀長でも紹介しています。
信長と秀吉の比較は、家臣団・妻・側室・領地・石高・水軍・城・経済政策・茶の湯・文化もあわせてどうぞ。
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