織田信長の兄弟をわかりやすく解説|信行・信包・有楽斎…十数人きょうだいの生涯とその最期【兄弟図つき】

織田信長の兄弟たち

戦国の風雲児・織田信長。その圧倒的な個性の陰で、彼にはじつに多くの兄弟がいたことは意外と知られていない。父・織田信秀は多くの子をもうけ、信長には十数人の男の兄弟と、多くの姉妹がいたとされる。彼らのある者は信長を支え、ある者は家督をめぐって刃を向け、ある者は若くして戦場に散り、そしてある者は乱世を巧みに生き抜いて泰平の世まで名を残した。本記事では、織田信長という巨星をとりまく兄弟たちに光を当て、その生い立ちから活躍、そして訪れた運命の終わりまでを、一人ずつたどっていきたい。まずは全体像を、下の兄弟図でつかんでほしい。

織田家 兄弟図
父・織田信秀の子どもたち(主な兄弟姉妹)
織田信秀
父・尾張の実力者
織田信広
異母兄
長島一向一揆で戦死
本人(★)
天下布武 → 本能寺
織田信行
同母弟
家督を争い誅殺
織田信包
お市らを保護・長命
織田信治
宇佐山城で戦死
織田秀孝
誤射され早世
織田秀成
長島で戦死
織田信興
長島一揆に敗れ自害
織田長益
茶人・有楽斎として長命
織田長利
本能寺(二条)で戦死
浅井・柴田に嫁ぐ
★=織田信長/並びは年齢順ではありません。信秀には男子だけで十数人、女子を含めると二十人を超える子がいたと伝わります。
目次

織田信秀の子として ― 十人を超えるきょうだい

織田信長の父・織田信秀は、尾張の一勢力にすぎなかった織田弾正忠家を、実力で尾張随一の存在へと押し上げた傑物であった。彼は複数の妻妾との間に多くの子をもうけており、その数は男子だけで十数人、娘を含めれば二十人を超えるとも伝わる。この大勢のきょうだいは、織田家の勢力を各地に広げる貴重な駒であると同時に、家督や主導権をめぐる火種にもなり得た。信長が家督を継いだのちも、兄弟の存在は常に、彼にとって助けであり、また警戒すべき相手でもあり続けたのである。

織田信広 ― 人質に翻弄された庶兄

信長の異母兄にあたるのが織田信広である。庶子であったため家督こそ継げなかったが、安祥城を任されるなど、早くから一定の地位にあった。しかしその生涯は、戦国の非情に大きく揺さぶられる。天文十八年(一五四九年)、信広は今川方との戦いに敗れて捕虜となり、今川の手にあった幼い徳川家康(当時の竹千代)との人質交換によって、ようやく織田家へ戻された。のちには斎藤義龍と通じて信長の暗殺を企てたとも伝わるが、これは露見して失敗し、信長に許されている。晩年は信長に従い、天正二年(一五七四年)、長島一向一揆との激戦のなかで戦死した。時代の荒波に翻弄されながらも、最後は弟・信長のために戦って果てた庶兄であった。

織田信行(信勝) ― 家督を争い、誅殺された同母弟

信長の同母弟である織田信行(信勝)は、兄弟のなかでも最も劇的な運命をたどった一人である。奇矯な振る舞いから「うつけ」と見なされていた信長に対し、信行は礼儀正しく、家中の期待を集めていた。母・土田御前も信行を寵愛したと伝わる。父・信秀の死後、家督をめぐる対立が表面化し、林秀貞や柴田勝家ら重臣は信行を擁立して信長に反旗を翻す。しかし弘治二年(一五五六年)の稲生の戦いで信行方は敗北。母のとりなしによって信行は一度は許された。だが、なおも謀反の企てをやめなかった信行に対し、信長は病と偽って清洲城へ誘い出し、これを誅殺した。肉親であっても、家の存亡を脅かす者は容赦しない――信長の非情さと合理性を象徴する事件であり、兄弟相克の悲劇として今も語られている。

織田信治・秀孝・秀成・信興 ― 若くして散った弟たち

信長の弟たちのなかには、志半ばで早世した者も少なくない。織田信治は、元亀元年(一五七〇年)、浅井・朝倉の連合軍が京へ迫った際、宇佐山城の守りに就いていた重臣・森可成とともに奮戦し、衆寡敵せず討死した。織田秀孝は美少年として知られたが、弘治元年(一五五五年)、叔父・織田信次の家臣に、身分を知られぬまま誤って射殺されるという不慮の死を遂げている。織田秀成は、兄・信広と同じく長島一向一揆との戦いで命を落とした。さらに織田信興も、同じ長島一揆の猛攻を受けて小木江城で自害している。長島の一向一揆は、織田一族から複数の兄弟を奪った、信長にとって深い遺恨の相手であった。若くして散った彼らの存在は、戦国が実力者の一族にとってもいかに過酷であったかを物語っている。

織田信包 ― お市と三姉妹を守った長命の弟

織田信包(のぶかね)は、兄弟のなかでは穏やかで堅実な人物として知られる。伊勢の名族・長野氏を継いで安濃津を治め、織田家の伊勢方面の支えとなった。信包の名を歴史に印象づけるのは、兄・信長の妹であるお市の方と、その三人の娘(茶々・初・江)を、浅井家滅亡ののちに保護したと伝えられることである(諸説あり)。武勇や権謀で名を馳せるタイプではなかったが、信包は激動の時代を巧みに生き抜き、豊臣政権下でも大名として遇された。そして関ヶ原の戦いののちも家を保ち、慶長年間まで長らえている。派手さはなくとも、一族の女性たちを守り、家を存続させたその生き方は、静かな見識を感じさせる。

織田長益(有楽斎) ― 戦国を生き抜いた茶人

信長の弟のなかで、最も異色の生涯を送ったのが織田長益、のちの有楽斎である。彼は武将でありながら、茶の湯に深く傾倒し、千利休に学んで一流の茶人として大成した。本能寺の変の際、長益は信長の嫡男・織田信忠とともに二条御所にあったが、そこを脱出して生き延びている。この行動は、後世に「兄や甥を見捨てて逃げた」と批判的に語られることもあるが、結果として彼は乱世を生き抜いた。豊臣政権下でも重んじられ、大坂の陣では豊臣方に身を置きながらも、戦火が本格化する前に大坂城を退去している。晩年は京で茶人として静かに暮らし、元和七年(一六二一年)に世を去った。東京の「有楽町」の地名は、この有楽斎の屋敷に由来するとの説が広く知られている。刀ではなく茶碗で乱世を渡りきった、稀有な織田の弟であった。

織田長利 ― 本能寺に殉じた弟

織田長利は、天正十年(一五八二年)の本能寺の変において、甥である織田信忠とともに二条御所で明智軍を迎え撃ち、戦死した。逃げ延びた兄・長益とは対照的に、長利は織田家の跡取りである信忠のもとに踏みとどまり、主家に殉じる道を選んだのである。同じ本能寺の変という一日のなかで、逃げて生き延びた弟と、留まって死んだ弟がいた――この対照は、極限の状況で人の生き方がいかに分かれるかを、痛切に示している。

姉妹たち ― お市とお犬の方

信長のきょうだいには、歴史に名を残した姉妹もいる。最も有名なのは、戦国一の美女と称された妹・お市の方である。彼女は浅井長政、のちに柴田勝家に嫁ぎ、二度の落城を経験しながら、三人の娘に豊臣・徳川へとつながる血脈を残した。もう一人、お犬の方も信長の妹として知られ、大野氏や佐治氏、細川氏へと嫁いでいる。当時、大名家の女性は同盟を結ぶための要であり、信長の姉妹たちもまた、織田家の勢力拡大を陰で支える重要な役割を担っていた。彼女たちの人生を抜きにして、織田家の歴史を語ることはできない。

まとめ ― 兄弟が映す織田家の光と影

こうして織田信長の兄弟たちを見わたすと、一つの家のなかに、戦国という時代のあらゆる運命が凝縮されていることに気づく。家督を争って誅殺された信行、戦場に散った信治や秀成、人質に翻弄された信広、女性たちを守った信包、茶人として乱世を渡りきった有楽斎、そして主家に殉じた長利――同じ父から生まれながら、その最期はあまりに多様であった。天下へと駆け上がった信長の輝きは、こうした兄弟たちの支えと、時に相克の上に成り立っていた。巨星の物語を、その周囲にいた者たちの視点から見つめ直すとき、織田家という一族が背負った光と影が、いっそう鮮やかに浮かび上がってくる。次回は、信長がこの世に遺した「子どもたち」の物語をお届けしたい。

戦国の合戦や事件の詳しい解説は、姉妹サイト「日本の歴史ガイド」でもお楽しみいただけます。

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