狩野永徳とは:片岡鶴太郎が演じる ― 信長・秀吉に仕えた天下一の絵師、代表作と秀長とのつながり

狩野永徳

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第37回・第38回で、片岡鶴太郎が演じる絵師がいます。狩野永徳(かのう えいとく)、織田信長と豊臣秀吉に仕え、安土城・大坂城・聚楽第の障壁画を描いた、安土桃山時代を代表する画家です。永徳はどんな家に生まれ、何を描き、なぜ作品がほとんど残っていないのか。そして秀長とのつながりはあったのか。史料と伝承を分けながら紹介します。

目次

ドラマの狩野永徳 ― 天下人に仕えた狩野派の絵師

NHKの紹介では、永徳は「狩野派の絵師。織田信長や豊臣秀吉に仕え、安土城や聚楽第、大坂城などの障壁画を描いた」人物とされています。第37回「秀長の国」から始まる大和郡山編に登場し、大和の国主となった豊臣秀長(仲野太賀)と関わっていきます。

狩野派の三代目 ― 祖父・元信に鍛えられた天才

永徳は天文12年(1543年)、京都に生まれました。名は州信(くにのぶ)、通称は源四郎。父は狩野松栄(直信)、祖父は狩野派の基礎を固めた狩野元信です。狩野派は、室町幕府の御用絵師だった狩野正信に始まる絵師の一門で、江戸時代の末まで約400年続きました。永徳は幼いころから祖父・元信の手ほどきを受け、若くして才能を現します。

永禄9年(1566年)、24歳の永徳は父とともに京都・大徳寺聚光院の障壁画を手がけました。このうち「花鳥図」「琴棋書画図」は、現在は国宝に指定されています。

信長と永徳 ― 洛中洛外図と安土城

永徳の名を今に伝える代表作が、国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」です。京の町と郊外の暮らしを細かく描き込んだ屏風で、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられます。現在は山形県の米沢市上杉博物館が所蔵しています。ただし、信長が贈ったという話は伝承で、それを示す史料ははっきりしていません。

天正4年(1576年)、信長が安土城を築くと、永徳は「天下一」の絵師として天主などの障壁画を描きました。信長の城を飾る仕事を任されたことで、永徳と狩野派は天下人の絵師という地位を確かなものにします。

秀吉と永徳 ― 大坂城・聚楽第と「大画様式」

本能寺の変ののち、永徳は秀吉に仕えます。天正11年(1583年)からの大坂城、天正14年(1586年)からの聚楽第、天正16年(1588年)の天瑞寺と、秀吉の大事業の障壁画を次々と手がけました。天瑞寺は、秀吉と秀長の母・大政所のための寺です。

この時期の永徳が得意としたのが「大画(たいが)様式」です。巨大な松や梅、獅子などを画面いっぱいに力強く描く豪快な画風で、広い城の大広間を飾るのにふさわしいものでした。国宝「唐獅子図屏風」(皇居三の丸尚蔵館蔵)はその代表とされます。一方で、洛中洛外図のような細かい描き込みの絵も得意とし、二つの画風を使い分けました。

なぜ作品がほとんど残っていないのか

永徳が生涯に描いた絵は膨大なはずですが、本人の作と確かめられる作品は多くありません。理由は、描いた場所そのものが失われたからです。安土城は本能寺の変の直後に焼け、大坂城は大坂の陣で落城し、聚楽第は秀吉自身の命で取り壊されました。城の襖や壁に描かれた障壁画は、建物とともに消えてしまったのです。

秀長とのつながりはあったのか

では、永徳は秀長の郡山城にも絵を描いたのでしょうか。今回調べた範囲では、永徳が郡山城の障壁画を描いたことや、秀長と直接やりとりしたことを示す史料は見つかりませんでした。大和郡山市の春岳院に伝わる「豊臣秀長画像」も、江戸時代に狩野派の絵師が描いたものとみられ、永徳の作ではありません。

ただし、永徳は秀吉の大事業を担う絵師であり、秀長は秀吉政権の中心にいた人物です。大坂城や聚楽第、母のための天瑞寺など、二人が同じ場にいた可能性は十分にあります。ドラマで描かれる永徳と秀長の関わりは、こうした史実の隙間をふくらませたものとして楽しむとよいでしょう。

最期 ― 東福寺の天井画の途中で

天正18年(1590年)、永徳は京都・東福寺法堂の天井画などを手がけている最中に病に倒れ、まもなく亡くなりました。9月14日、48歳でした。宮中の御殿の絵の制作中だったとも伝わり、休む間もない仕事ぶりから「過労死だったのではないか」と語られることもあります。八条宮邸の襖絵がもとになった国宝「檜図屏風」(東京国立博物館蔵)は、最晩年の作とされます。

この年は、秀長が病に伏し、翌年1月に亡くなる時期でもあります。豊臣政権を支えた絵師と補佐役が、相次いで世を去ったことになります。

永徳のあと ― 探幽と江戸の狩野派

永徳の死後、狩野派は長男の光信、弟の宗秀、そして弟子で養子となった狩野山楽らが支えました。山楽の系統は京都に残って「京狩野」と呼ばれます。さらに永徳の孫・狩野探幽は元和3年(1617年)、16歳で江戸幕府の御用絵師となり、江戸の狩野派の頂点を築きました。永徳が天下人のもとで築いた地位は、徳川の世にも受け継がれていったのです。

まとめ

  • 狩野永徳は狩野元信の孫。信長・秀吉に仕え、安土城・大坂城・聚楽第の障壁画を描いた
  • 代表作は国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」「唐獅子図屏風」「檜図屏風」、聚光院の障壁画など
  • 描いた城の多くが失われたため、確かな作品は少ない
  • 秀長と直接結びつく史料は見つかっていない。ドラマの関わりは史実の隙間を描いたもの
  • 天正18年(1590年)、48歳で死去。孫の探幽が江戸の狩野派を率いた
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