武田信玄の小田原攻めと三増峠の戦いをわかりやすく解説|信玄はなぜ小田原城を4日で去ったのか

小田原城下に火を放ち、ゆうゆうと引き上げる武田信玄の軍勢のイラスト

永禄12年(1569年)、甲斐の武田信玄は2万の兵を率いて関東へ攻め込み、北条氏の小田原城を囲みました。わずか8年前には上杉謙信も囲んで落とせなかった城です。信玄は城下に火を放って引き上げ、その帰り道、待ち伏せていた北条軍と三増峠(みませとうげ)でぶつかりました。この記事では、武田信玄の小田原攻めと三増峠の戦いを、わかりやすく解説します。

武田信玄の小田原攻め・三増峠の戦いの基本データ

いつ 永禄12年(1569年)8月の出陣から、10月の三増峠の戦いまで(小田原包囲は10月1日〜5日ごろ)
どこ 武蔵・相模の北条方の城(鉢形城・滝山城など)、小田原城、帰り道の三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)
誰と誰 武田信玄 対 北条氏康・氏政、北条氏照・氏邦
兵力 武田方は約2万。三増峠で待ち受けた北条氏照・氏邦の軍は約2万といわれる
結果 小田原城は落ちず。三増峠の戦いは武田方の勝利とされるが、武田方も浅利信種らを失った
この後 信玄は駿河の平定を進める。元亀2年(1571年)、北条氏政は上杉と手を切り、武田と再び同盟を結ぶ
目次

武田信玄の小田原攻めを3行でいうと

  • 信玄が今川領の駿河へ攻め込んだことで、武田と北条の同盟が壊れ、両家は敵どうしになった
  • 信玄は北条の背後をつくように関東へ攻め込み、小田原城を4日ほど囲んで城下を焼いた
  • 帰り道の三増峠で北条軍が待ち伏せたが、信玄はこれを破って甲斐へ帰った

なぜ信玄は小田原へ攻め込んだのか — 三国同盟の崩壊

武田・北条・今川の三家は、天文23年(1554年)に「甲相駿三国同盟」を結んでいました。ところが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると今川家は弱まり、永禄11年(1568年)12月、信玄は同盟を破って駿河へ攻め込みます。

北条氏康の娘は今川氏真に嫁いでいたため、北条は怒って今川を助け、武田と戦うことになりました。さらに北条は、長年の敵だった上杉謙信とも手を結びます(越相同盟)。こうして武田は、北条と上杉に挟まれる形になりました。

信玄が小田原へ攻め込んだのは、北条の本拠を脅かして駿河から北条軍を引かせること、そして北条と上杉の同盟をゆさぶることがねらいだったと考えられています。

関東の城を攻めながら南へ — 鉢形城・滝山城

小田原城下に火を放ち、ゆうゆうと引き上げる武田信玄の軍勢のイラスト
武田信玄は小田原城を4日ほど囲んだあと、城下に火を放って引き上げた(イラスト)

8月24日、信玄は甲府を出発し、碓氷峠を越えて上野から武蔵へ入りました。北条氏邦の守る鉢形城(埼玉県寄居町)や、北条氏照の守る滝山城(東京都八王子市)などを次々に攻めます。滝山城では、別の道から進んだ小山田信茂の隊が、廿里(とどり)で北条軍を破りました。滝山城は落ちませんでしたが、城の奥深くまで攻め込まれたと伝わります。

東京都八王子市の滝山城跡の石碑
北条氏照の城・滝山城の跡(東京都八王子市)。国の史跡で、続日本100名城にも選ばれている(筆者撮影)
滝山城跡の深い空堀にかかる木の橋
滝山城跡の深い空堀と、そこにかかる橋。曲輪と曲輪の間を堀で区切った、守りの固い城だった(筆者撮影)

小田原城の包囲 — 4日で城下を焼いて撤退

10月1日、武田軍は小田原城を囲みました。信玄は城の兵を外へ誘い出そうとしましたが、北条氏康・氏政は城から出ず、守りを固めました。上杉謙信のときと同じく、小田原城は大軍でもかんたんには落とせない城だったのです。

10月5日、信玄は城下に火を放ち、包囲をといて引き上げます。はじめから小田原城を落とすつもりはなく、北条の本拠まで攻め込んで見せること自体が目的だった、とする見方もあります。

小田原城址公園の城門と石垣
小田原城址公園の城門。信玄も謙信も、この城を落とすことはできなかった(筆者撮影)

三増峠の戦い — 帰り道の待ち伏せ

紅葉の山あいで北条軍の背後に駆け下りる武田の別働隊のイラスト
三増峠の戦い。山県昌景の別働隊が高い場所から北条軍の背後を突き、形勢が逆転した(イラスト)

北条方は、武田軍を帰り道で討とうと考えました。北条氏照・氏邦の兄弟は約2万の兵で、相模と甲斐を結ぶ三増峠(神奈川県愛川町)に先回りして待ちかまえます。さらに当主の氏政が小田原から本隊を率いて追いかけ、武田軍を前後から挟み撃ちにする作戦でした。

10月6日(8日とも)、武田軍は三増峠に着き、両軍の戦いが始まります。はじめは高い場所に陣取った北条軍が優勢で、武田方の左翼の大将・浅利信種が鉄砲に撃たれて討ち死にしました。しかし、山県昌景の別働隊が山を回りこんで北条軍の背後の高い場所から攻めかかると、形勢は逆転。北条軍は崩れて退きました。

小田原から追ってきた氏政の本隊は、戦いに間に合いませんでした。信玄は挟み撃ちになる前に峠を越え、甲斐へ引き上げます。

その後 — 駿河の平定と、甲相同盟の復活

三増峠の戦いは武田方の勝ちとされますが、武田方の損害も小さくありませんでした。それでも信玄は関東での戦いを有利に終え、その後、駿河の平定を進めていきます。

元亀2年(1571年)に北条氏康が亡くなると、跡を継いだ氏政は上杉と手を切り、再び武田と同盟を結びました。小田原城はその後、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐まで、敵の手に落ちることはありませんでした。

武田信玄の小田原攻めのゆかりの地

  • 三増合戦場跡(神奈川県愛甲郡愛川町三増):戦いの碑と、両軍の戦死者を弔う塚がある
  • 滝山城跡(東京都八王子市):北条氏照の城。武田軍に城の奥深くまで攻め込まれたと伝わる。のちに氏照は八王子城を築いた
  • 鉢形城跡(埼玉県大里郡寄居町):北条氏邦の城。国の史跡で、歴史館もある
  • 小田原城址公園(神奈川県小田原市):信玄が4日ほど囲んだ北条氏の本拠

筆者のひとこと

筆者も滝山城跡を訪れました。城跡は広大で、そこまで整備されているわけではありませんが、強固な城に見えました。

この戦いに登場した主な武将(武田方)

この戦いに登場した主な武将(北条方)

※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。

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