加藤清正・福島正則と石田三成はなぜ仲が悪かったのか|尾張と近江、槍と帳面、朝鮮出兵、七将襲撃事件【豊臣兄弟!】

石田三成を囲む家臣団の群像

大河『豊臣兄弟!』第39回では、秀吉にもう一人妻を迎えるべきだと説く石田三成に、加藤清正と福島正則が「寧々様を傷つけたいのか」と食ってかかる場面がありました。同じ秀吉の家臣でありながら、のちに関ヶ原で敵味方に分かれることになる三人。なぜ清正・正則と三成は仲が悪かったのでしょうか。出身地、役割、朝鮮出兵、そして秀吉の死後の事件と、4つの切り口から整理します。

先に結論

  • 出身と育ち:清正・正則は尾張出身で秀吉の親戚筋。三成は近江出身で、秀吉が長浜城主になってから仕えた
  • 役割:戦場で槍をふるう武将と、検地や兵糧を担う奉行。働き方も評価のされ方も違った
  • 決定的な溝:朝鮮出兵で、三成ら奉行の報告をきっかけに清正らが処分され、恨みが深まった
  • 爆発:秀吉と前田利家が亡くなったあと、清正・正則らが三成を討とうとした(七将襲撃事件)
  • ただし:「三成は横柄で嫌われ者」という話の多くは、江戸時代に書かれた逸話による
目次

三人のプロフィールを比べる

加藤清正 福島正則 石田三成
生まれ 永禄5年(1562) 永禄4年(1561) 永禄3年(1560)
出身 尾張・中村 尾張・海東郡 近江・坂田郡石田村
秀吉との縁 母が秀吉の母・大政所の縁者とされる 母が秀吉の叔母とされる 血縁なし。長浜時代に召し抱えられる
仕え始め 少年時代から(小姓) 少年時代から(小姓) 秀吉の長浜城主時代
得意分野 合戦、築城(熊本城) 合戦(賤ヶ岳の一番槍) 検地、兵糧・物資の手配、大名との取次
関ヶ原 東軍(九州で戦う) 東軍の先鋒 西軍の中心

三人はほぼ同じ年ごろで、年の差は1〜2歳しかありません。それでも、秀吉のもとへやって来た道筋も、任された仕事もまったく違っていました。

理由1:尾張の「身内」と、近江の「新参」

清正と正則は、秀吉と同じ尾張の出身で、しかも母どうしが秀吉の家とつながる親戚筋でした。少年のころから秀吉と寧々の家で育てられ、寧々を母のように慕っていたと伝わります。今回のドラマで二人が「寧々様を傷つけたいのか」と怒ったのは、この育ちを踏まえた描き方といえます。

一方の三成は近江の出身です。秀吉が天正元年(1573)ごろ、浅井家の旧領を与えられて長浜城主になると、地元近江の有能な若者を次々と召し抱えました。三成もその一人で、同じように長浜時代に仕えた近江出身の家臣には、増田長盛や大谷吉継(近江出身とされる)らがいます。

秀吉の家臣団には、尾張以来の古い身内と、長浜時代に加わった近江の人々という二つの流れがありました。家族のような絆で結ばれた尾張組から見ると、頭の切れる近江の新参が秀吉の信頼を得て出世していく姿は、面白くなかったのかもしれません。

理由2:槍の手柄と、帳面の仕事

清正と正則は、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで活躍した「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる、戦場の武将です。三成も賤ヶ岳には加わっていますが、得意としたのは、兵糧や武器を前線に届ける仕事や、敵の様子を探る仕事、のちには太閤検地や大名との交渉でした。

天下統一が進むにつれ、大きな合戦は減り、政権を動かすのは三成のような奉行たちになっていきます。命がけで戦ってきた武将たちには、後方で帳面をつける者が政権の中心に座り、自分たちの働きを評価する立場にいることが、我慢ならなかったのです。

理由3:朝鮮出兵で決定的になった溝

二人の溝を決定的にしたのが、文禄元年(1592)から始まった朝鮮出兵です。三成ら奉行は朝鮮に渡って、戦況を秀吉に報告する役目も負っていました。

  • 文禄の役:清正は、三成と親しい小西行長と、進軍や講和の進め方をめぐって激しく対立しました。講和交渉のさまたげになったとして、清正は秀吉の怒りを買い、日本に呼び戻されて謹慎させられます。清正はこれを、三成や行長の訴えによるものと受け止めました
  • 慶長の役:蔚山城の戦いのあと、三成に近い軍目付(いくさを見張る役)の報告をもとに、蜂須賀家政や黒田長政らが「戦いぶりが消極的だった」として処分されました。戦場で苦しい戦いをした武将たちは、不当な扱いだと強く反発します

前線で命をかけた武将たちにとって、三成は「秀吉に告げ口をして自分たちを罰した張本人」に見えたのです。

理由4:秀吉と利家の死、そして七将襲撃事件

慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、武将たちを抑える存在がいなくなります。それでも、豊臣家の重鎮である前田利家が両者の間を取り持っていました。

しかし慶長4年(1599)閏3月に利家が亡くなると、そのすぐあと、清正・正則に黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明らを加えた七人の武将が、三成を討とうと動きました。これが「七将襲撃事件」です(顔ぶれには諸説あります)。三成は伏見の屋敷にこもって難を逃れ、最後は徳川家康の仲裁により、奉行の職を退いて近江の佐和山城に引きこもることになりました。

なお、近年の研究では、これは武力で襲った事件というより、三成の処分を求めて訴えた騒動だったとする見方も出ています。いずれにしても、この事件で三成は政権の中枢から外れ、家康の力がいっそう強まりました。翌慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、清正・正則は家康の東軍に、三成は西軍の中心に立つことになります。

三成は本当に「嫌われ者」だったのか

三成といえば「横柄で融通がきかず、人望がなかった」と語られがちです。しかし、そうした話の多くは江戸時代に書かれた逸話集によるもので、徳川の世では、家康に敵対した三成が悪く書かれやすかったことも考えなければなりません。実際には、大谷吉継のように三成と最後まで行動をともにした武将もいました。

また、「寧々を慕う尾張派」と「茶々に近い近江派」が争ったという分かりやすい図式も、近年の研究では単純すぎるとして見直されています。寧々と茶々が対立していたわけではないことは、寧々と茶々は仲が悪かった?でも紹介しています。三人の対立は、出身や性格の違いだけでなく、政権のなかでの役割の違いと、朝鮮出兵という大きな失敗の責任をめぐる争いが重なった結果と見るのがよさそうです。

よくある質問

Q. 石田三成と加藤清正はなぜ仲が悪かったのですか?

A. 出身地や仕え始めた時期の違い、武将と奉行という役割の違いに加え、朝鮮出兵で三成ら奉行の報告をきっかけに清正が処分されたことで、対立が決定的になりました。

Q. 清正と正則はどこの出身ですか?

A. 二人とも尾張の出身で、秀吉の親戚筋にあたります。三成は近江の出身です。

Q. 七将襲撃事件とは何ですか?

A. 慶長4年(1599)、前田利家の死の直後に、清正・正則ら七人の武将が三成を討とうとした事件です。家康の仲裁で、三成は佐和山城に隠居しました。

まとめ

加藤清正・福島正則と石田三成の対立は、尾張の身内と近江の新参という出身の違い、戦場の武将と奉行という役割の違いから始まり、朝鮮出兵での処分をめぐって決定的になりました。秀吉と利家という重しを失ったとき、その溝は七将襲撃事件として噴き出し、関ヶ原へとつながっていきます。第39回の言い争いは、豊臣家を内側から割っていく亀裂の、最初の一筋だったのかもしれません。

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