吉田長利 | 黒田家三代に仕えた黒田二十四騎の一人

よしだ ながとし

地域九州
所属勢力・属性黒田家臣
大名家黒田
家紋―
主武器大槍
衣装・甲冑黒塗具足
武将タイプ「黒田二十四騎」・一番槍

吉田長利は黒田職隆・孝高・長政の三代に仕えた武将で、黒田二十四騎の一人。通称は六郎太夫とされ、のちに壱岐守を名乗った。播磨の八代氏の出身で、孝高の勧めで吉田姓を継いだ。晩年は福岡城南の丸の城代を務めた。

目次

播磨の八代氏から吉田氏へ

吉田長利は天文16年(1547年)、播磨国飾東郡八代村(姫路市)に生まれた。父は八代道慶である。黒田孝高(官兵衛)とは乳兄弟の間柄だったとされる。

永禄6年(1563年)、孝高の父・黒田職隆に仕えた。永禄9年(1566年)、孝高の勧めで家老の吉田重生から姓を譲られ、吉田姓となった。通称は六郎太夫とされる。

播磨・中国での戦い

長利は黒田家の播磨時代から戦場に出た。青山・土器山の戦い、別所氏による置塩城攻め、備中高松城の戦いなどに従軍した。

青山・土器山の戦いは、永禄12年(1569年)に黒田勢が赤松政秀の軍を退けた合戦である。黒田家が小寺氏の家臣だった時代の戦いである。

豊前・筑前と黒田二十四騎

黒田家が豊前に入ると、長利は1,282石を与えられた。天正16年(1588年)、黒田長政が豊前の国人・城井鎮房を中津城で討った際には、城門の警備にあたった。城井鎮房は豊前の国人で、黒田氏の入国に抵抗した。長政は和議の後、鎮房を中津城に招いて討った。

文禄・慶長の役にも従軍し、関ヶ原の戦いの際には九州での富来城攻めに加わった。慶長7年(1602年)、筑前で1,200石を加増された。長政から壱岐守の名乗りを与えられている。黒田家の重臣を顕彰した「黒田二十四騎」の一人に数えられる。富来城攻めは、孝高が九州で東軍方として兵を動かした際の戦いである。

福岡城の城代として

慶長9年(1604年)に孝高が没した後、福岡城南の丸の城代を務めた。隠居後は水庵(翠庵)と号した。元和9年(1623年)9月22日、福岡で没した。77歳であった。福岡の金龍寺に葬られたとされる。

ゆかりの地

  • 福岡城跡(福岡市):晩年の長利が南の丸の城代を務めた
  • 金龍寺(福岡市):長利の墓所とされる寺

参考にした資料

黒田家

主家

黒田長政黒田官兵衛

家臣団

後藤又兵衛
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