たいげん せっさい
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 今川氏(義元の側近) |
| 大名家 | 庵原氏の出身 |
| 家紋 | ―(僧) |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 墨染の衣と袈裟 |
| 武将タイプ | 黒衣の宰相 |
太原雪斎(たいげん せっさい)は、駿河の今川義元を支えた臨済宗の僧である。僧としての名は崇孚(すうふ)。幼い義元の教育係を務め、義元が当主になってからは、軍事・外交・政治のすべてで今川家を支えた。僧でありながら政治の中心にいたことから「黒衣の宰相」とも呼ばれる。
- 明応5年(1496年)、駿河の今川家重臣・庵原氏の家に生まれる。出家して京都の建仁寺などで修行した
- 今川氏親の子・栴岳承芳(のちの義元)の教育係となり、天文5年(1536年)の花倉の乱で義元を当主に立てた
- 三河での戦いや、武田・北条との甲相駿三国同盟の成立に力を尽くし、弘治元年(1555年)に60歳で亡くなった
義元の師として
雪斎は幼いころに出家し、駿河の善得寺で学んだのち、京都の建仁寺で修行した。やがて今川氏親の五男で、同じく僧になっていた栴岳承芳(せんがくしょうほう)の教育係となり、ともに京都で学んだ。
天文5年(1536年)、今川家の当主が急死し、跡継ぎをめぐって花倉の乱が起こる。雪斎は承芳を支えて相手方の玄広恵探(げんこうえたん)を破り、承芳は還俗して今川義元となった。同じ年、雪斎は駿府に臨済寺を開いている(「今川義元」参照)。
三河の戦いと竹千代
雪斎は戦場にも立った。天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは今川軍を率いて織田信秀の軍と戦い、翌天文18年(1549年)には三河の安城城を攻め落として城主の織田信広を捕らえた。
このとき雪斎は、捕らえた信広と、織田家のもとにいた松平竹千代(のちの徳川家康)との人質交換をまとめた。竹千代はその後、駿府で人質として暮らすことになる。雪斎が竹千代に学問を教えたという話もあるが、確かな史料はなく、伝承として語られている。
甲相駿三国同盟
雪斎は外交でも力を発揮した。今川・武田信玄・北条氏康の三家は、娘を互いに嫁がせて天文23年(1554年)ごろに同盟を結ぶ(甲相駿三国同盟)。雪斎はこの同盟の成立に大きな役割を果たしたとされる。三家の当主が善得寺に集まって同盟を誓ったという「善得寺会盟」の話は、後世の創作とみる説が有力である。
雪斎は京都の妙心寺の住持も務めた禅僧でもあり、中国の歴史書を出版するなど学問にも力を入れた。弘治元年(1555年)閏10月に亡くなったが、その5年後、義元は桶狭間の戦いで討たれる(「桶狭間の戦いをわかりやすく解説」参照)。「雪斎が生きていれば」と語られることも多いが、これは後世の見方である。
太原雪斎をめぐる人物
ゆかりの地
- 臨済寺(静岡県静岡市葵区):雪斎が開いた今川家の菩提寺。雪斎の墓がある。家康の「手習いの間」は伝承(公開日が限られる)
- 長慶寺(静岡県藤枝市):雪斎を開山とする寺
- 清見寺(静岡県静岡市清水区):雪斎が再興したと伝わる寺
この人物をもっと知る本
- 【評伝】小和田哲男『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』(ミネルヴァ書房・ミネルヴァ日本評伝選):義元とともに雪斎の役割も詳しく描く
- 【新書・選書】大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書):今川家の全盛から滅亡までを最新の研究でたどる


















