戦国の寺社はどれほど強かったのか ― 興福寺・高野山・根来寺・雑賀衆の領地と兵力を大名と比べてみた

応其と秀吉 高野山の交渉

戦国時代というと、武田・上杉・織田といった戦国大名どうしの争いを思い浮かべがちである。しかし畿内とその周辺には、大名に負けない、あるいは大名以上の力を持った「寺社」の勢力がいた。広大な領地を持ち、武装した僧を抱え、鉄砲まで備えた彼らは、天下統一を目指す信長や秀吉にとって最大の難敵の一つであった。本記事では、大和の興福寺、紀伊の高野山・根来寺、そして雑賀衆を取り上げ、その力がどれほどのものだったのかを、できるだけ数字で比べてみたい。

目次

比べるための物差し ― 大名の石高

寺社の力を実感するために、まず同じ時代の大名の石高を確認しておこう。筒井定次が天正十三年(1585)に移された伊賀上野が二十万石、文禄四年(1595)に大和郡山に入った増田長盛が二十万石。そして大和・紀伊・和泉を与えられた豊臣秀長の領地が、およそ百万石と称された。二十万石あれば一国を治める有力大名、百万石は天下人の一門にふさわしい大領である。

興福寺 ― 大和一国を支配した「守護」

奈良の興福寺は、中世の寺社勢力の代表格である。平安時代以来、大和国の荘園のほとんどを手中に収め、事実上の国主として君臨した。鎌倉幕府も室町幕府も、大和には守護を置くことができなかった。興福寺が守護の役割を担っていたからである。

興福寺の力の源は、領地だけではない。配下の武士(衆徒・国民)と僧兵を抱え、要求が通らなければ春日社の神木を担いで京へ押しかける「強訴」で朝廷を揺さぶった。神木の動座はおよそ七十回に及んだという。戦国大名として知られる筒井氏も、もとは興福寺一乗院に仕える衆徒の筆頭であった。

その興福寺も、秀長の入国と太閤検地を経て、江戸時代には春日社とあわせて二万一千石余りの寺領に落ち着く。一国を丸ごと支配していた寺が、大名でいえば小藩程度の規模に収められたのである。

高野山 ― 全国に十七万石の寺領

紀伊の高野山(金剛峯寺)は、全国に寺領を散在させ、その合計は十七万石に達したとされる。二十万石クラスの大名に迫る規模であり、しかも武装した僧も抱えていた。

天正十三年(1585)、秀吉は紀州攻めで根来寺・雑賀衆を平らげると、高野山にも降伏を迫った。このとき高野山の交渉役として秀吉と渡り合ったのが、僧・木食応其である。高野山は武装解除と寺領の差し出しを受け入れることで焼き討ちを免れた。のちに秀吉は天正十九年(1591)に一万石を安堵し、応其にも寄進を重ねて、寺領はあわせて二万一千石となった。十七万石から二万一千石へ――八分の一ほどに縮んだことになるが、それでも寺が生き残ったこと自体が、高野山の交渉力の高さを物語っている。

根来寺 ― 鉄砲で武装した「僧兵の城」

高野山と同じ真言宗の根来寺は、戦国時代、最も「戦う寺」らしい寺であった。天正三年(1575)ごろには寺内に四百五十を超える坊院が並び、五千人以上の僧が暮らしていたとされる。根来衆と呼ばれた僧兵は一万余りともいわれ、種子島に鉄砲が伝来するといち早くこれを持ち帰り、鉄砲隊を組織した。津田算長(杉の坊)らが鉄砲の導入と量産に関わったことはよく知られている。

根来寺の寺領は「七十二万石」と語られることが多い。ただし、この数字を裏づける確かな史料は見当たらず、寺の勢いの大きさを伝える言い伝えとして受け止めておくのがよいだろう。仮に割り引いて考えたとしても、数千の僧と鉄砲隊を抱える寺が、並の大名をしのぐ軍事力を持っていたことは疑いない。

天正十三年三月、秀吉軍が迫ると根来寺は炎上し、火は三日間燃え続けたという。大塔や大師堂など数棟を残して伽藍は失われた。秀吉の焼き討ちとされることが多いが、寺衆の自焼や兵の放火など諸説あり、はっきりしない。国宝の大塔には、今も当時の弾痕が残るとされる。

根来寺大塔
根来寺の大塔(国宝)(写真:663highland / CC BY 2.5)

雑賀衆 ― 寺ではない、門徒と地侍の連合

根来衆と並び称される雑賀衆だが、こちらは寺院そのものではない。紀ノ川河口の雑賀の地を中心とする地侍たちの連合体で、その多くが一向宗(浄土真宗)の門徒であった。大名に従わず、地域の武士たちが寄り合いで物事を決める「自治」の集団であり、鉄砲の扱いに長けた傭兵としても名高い。鈴木重秀(雑賀孫一)や土橋守重らがその代表的な顔ぶれである。

雑賀衆は、石山本願寺が信長と十年にわたって戦った石山合戦で、本願寺側の主力として信長を苦しめた。信長も天正五年(1577)に雑賀攻めを行ったが、完全に屈服させることはできなかった。最後は天正十三年の秀吉の紀州攻めで、雑賀の地侍らが太田城に籠城する。城内には五千人ほどの兵に加え、四千〜五千人の非戦闘員もいたとされ、秀吉は堤を築いて城を水に沈める「水攻め」でこれを降した。

なぜ寺社はこれほど強かったのか

寺社勢力が強大だった理由は、大きく三つにまとめられる。

  • 経済力:朝廷や貴族、武士から寄進された荘園を全国に持ち、そこからの収入が莫大だった。
  • 武力:僧兵や配下の武士を抱え、根来寺や雑賀衆のように鉄砲まで大量に備えていた。
  • 権威:神仏の威光を背景に、朝廷や幕府でさえ正面から手を出しにくかった。興福寺の強訴はその典型である。

加えて、寺は信仰で結ばれた人々のネットワークの中心でもあった。本願寺が門徒を動員して各地で一向一揆を起こし、加賀では「百姓の持ちたる国」と呼ばれる状態が約百年続いたことは、寺社の力が領地や兵の数だけでは測れないことを示している。

寺社勢力の終わり ― 秀吉が変えたもの

こうした寺社の力を最終的に削いだのが、秀吉であった。天正十三年の紀州攻めで根来寺と雑賀衆を滅ぼし、高野山を屈服させる。同じ年に弟・秀長を大和に入れ、興福寺の膝元を身内に治めさせた。さらに刀狩と太閤検地によって、寺社から武器と、自分たちで土地を支配する力を取り上げていった。

大和の興福寺も、紀伊の高野山も、江戸時代にはそろって二万石余りの寺領に収まる。かつて一国を支配し、大名に匹敵する兵を抱えた寺社は、こうして「武家の政権に保護される宗教勢力」へと姿を変えた。中世の寺社がどれほど強かったかを知ると、天下統一とは大名を従わせるだけでなく、寺社の力を抑え込むことでもあったのだとよくわかる。

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