戦国時代、日本でいち早く鉄砲を集団で使いこなしたのは、戦国大名ではなく紀伊国の寺と地侍たちであった。根来寺の僧兵「根来衆」と、紀ノ川河口の地侍連合「雑賀衆」である。ともに「鉄砲傭兵」として名をはせた両者は、信長と本願寺が十年にわたって争った石山合戦で、ときに敵味方に分かれることになった。本記事では、根来寺に鉄砲がどのように伝わり、高価な武器をどうやって揃えていったのか、そして雑賀衆との「鉄砲対決」はどうなったのかをたどっていく。
種子島から根来へ ― 一挺の鉄砲が持ち帰られた
天文十二年(1543)、種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝えられた。江戸時代初めに種子島家がまとめた『鉄炮記』によれば、このとき根来寺の子院・杉の坊の院主(明算)の命を受けた津田算長(監物)が種子島へ渡り、鉄砲一挺を譲り受けて紀伊へ持ち帰ったという。
算長は、根来寺の門前町・坂本にいた鍛冶の芝辻清右衛門にこの鉄砲を複製させた。芝辻家はもともと堺の鍛冶で、のちに堺へ戻って鉄砲を作ったことが、堺が一大産地となるきっかけの一つになったと伝わる(芝辻家の『鉄炮由緒書』)。種子島に伝来した鉄砲は、根来を経て、畿内に広がっていったのである。
もっとも、津田算長の存在を示す同時代の史料は見つかっておらず、算長はなかば伝説的な人物とされる。「根来に早くから鉄砲が伝わり、そこで作られた」という大筋は多くの伝承で一致するが、細部は後世の家伝に拠っていることは押さえておきたい。算長の流れはのちに砲術の一派「津田流」として受け継がれていく。
とてつもなく高価だった鉄砲
鉄砲は伝来当初、とてつもなく高価な武器であった。『鉄炮記』は、種子島の領主・種子島時尭が二挺を二千両で買い求めたと記している。現在の価値に換算すれば一億円を超えるともいわれる金額である。
国内で作られるようになると値段は大きく下がったが、それでも十六世紀の一挺あたりの価格は八貫五百文ほどと推算されており、現代の感覚でおよそ五十万〜六十万円に相当する。これに火薬の原料である硝石(多くは輸入品)や鉛玉の費用が加わる。数百、数千の鉄砲を揃えて使い続けるには、並外れた財力が必要であった。
根来寺はなぜ鉄砲を揃えられたのか
根来寺にはその財力があった。戦国期の根来寺は、天正三年(1575)ごろには寺内に四百五十を超える坊院が並び、五千人以上の僧が暮らす巨大な宗教都市であった。寺領は「七十二万石」と語り継がれている(確かな史料で裏づけられた数字ではないが、それほどの勢いを持っていたことを物語る)。
根来寺の武力を担ったのは、「行人」と呼ばれる実務・軍事を担う僧たちである。杉の坊や泉識坊といった有力な子院は、紀伊や和泉の地侍の家から子弟を迎え入れ、それぞれが独自の武装集団を抱えていた。子院の背後には地侍の一族と所領があり、寺全体としての経済力と、在地の武士のネットワークが結びついていた。
さらに根来衆は、その腕前を売る傭兵としても活動した。各地の大名や勢力に雇われて戦うことで報酬を得て、それがまた鉄砲や弾薬を買い足す資金となる。門前の坂本で鉄砲を作る鍛冶を抱え、自前で武器を生産できたことも大きい。財力・生産力・実戦経験がそろった根来は、まさに鉄砲の先進地であった。
最盛期にはどれほど揃っていたのか
根来衆が最終的に何挺の鉄砲を持っていたのか、正確な数を伝える史料はない。僧兵の数は一万余りともいわれるが、その全員が鉄砲を持っていたわけではないだろう。
手がかりになるのが、元亀元年(1570)の野田・福島の戦いである。『信長公記』は、信長方として出陣した根来・雑賀・湯川など紀伊の衆がおよそ二万、鉄砲三千挺を擁していたと記す。根来衆と雑賀衆をあわせて、一度の戦いに数千挺規模の鉄砲を投入できたことがわかる。長篠の戦い(1575年)で信長が用意した鉄砲がおよそ千挺とも三千挺ともいわれることを考えれば、紀伊の鉄砲集団がいかに突出していたかがうかがえる。
根来と雑賀 ― 近くて遠い二つの鉄砲集団
根来衆と雑賀衆はしばしば一緒くたに語られるが、性格は異なる。根来衆は真言宗の寺院に属する僧兵集団であり、雑賀衆は紀ノ川河口の雑賀荘・十ヶ郷・中郷・南郷・宮郷の五つの地域の地侍の連合体で、その多くは一向宗(浄土真宗)の門徒であった。
とはいえ、両者の関係は深い。雑賀の各郷は根来寺に子院を建てて子弟を送り込んでおり、人の行き来も盛んだった。ともに鉄砲に長け、傭兵として同じ戦場に立つことも多かったのである。
石山合戦で敵味方に分かれる
両者の道が分かれたのが、石山合戦であった。元亀元年、野田・福島の戦いでは根来・雑賀そろって信長方に加わっていたが、本願寺が信長に対して兵を挙げると、門徒の多い雑賀衆の中心勢力は本願寺の側についた。鈴木重秀(雑賀孫一)率いる雑賀の鉄砲隊は、天正四年(1576)に織田軍を破るなど、信長を大いに苦しめる。
一方の根来寺は、真言宗の寺であって本願寺とは宗派が異なる。根来衆は信長に好意的な立場をとり、信長の京都御馬揃えにも参加している。「根来は織田方、雑賀は本願寺方」という構図は、おおむねこの時期の両者の立場を言い当てている。ただし雑賀衆も一枚岩ではなく、内陸の中郷・南郷・宮郷の三組は信長に通じていた。
天正五年の雑賀攻め ― 鉄砲対決の結末
天正五年(1577)二月、信長は本願寺を支える雑賀衆を討つため、紀伊へ大軍を差し向けた。このとき信長は、雑賀三組と根来寺杉の坊をあらかじめ味方に引き入れていた。根来衆は織田軍の先導役となり、紀伊の地を知り尽くした鉄砲集団が、かつての仲間である雑賀衆と刃を交えることになったのである。
しかし、戦いは信長の思いどおりには進まなかった。雑賀衆は川や地形を利用して鉄砲で迎え撃ち、織田軍は大きな損害を出す。最終的に鈴木孫一や土橋守重らが誓紙を差し出して服属を誓い、信長は兵を引いたが、雑賀衆はほどなく元どおり本願寺への加勢を再開した。形の上では降伏でも、実質的には雑賀衆が持ちこたえた戦いであったといえる。根来の協力を得てもなお、信長は雑賀の鉄砲を封じ込めることはできなかった。

そして共に滅んだ ― 秀吉の紀州攻め
信長の死後、根来衆と雑賀衆は再び同じ側に立つ。天下統一を進める羽柴秀吉に対抗し、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康・織田信雄方に呼応して秀吉の背後を脅かした。
これが秀吉の怒りを買う。天正十三年(1585)三月、秀吉は大軍で紀伊に攻め入り、根来寺は炎上して三日間燃え続けた。雑賀衆も太田城に籠城したが、秀吉の水攻めの前に降伏する。鉄砲の先進地として戦国の戦場を駆け抜けた二つの集団は、同じ年、同じ天下人の手によって歴史の表舞台から姿を消した。
現在も根来寺に残る国宝の大塔には、このときの戦いのものとされる弾痕が残っている。種子島から一挺の鉄砲を持ち帰ってからおよそ四十年――根来の鉄砲の物語は、その弾痕とともに今に伝えられている。

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