赤松祐高 | 龍野赤松氏の一族とされる武将

赤松祐高

あかまつ すけたか

地域近畿
所属勢力・属性播磨赤松氏
大名家播磨赤松氏
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ一門・抵抗

龍野赤松氏の一族とされる武将。天正5年(1577)に龍野城が羽柴秀吉に開城すると、兄とともに秀吉に従ったとされる。大坂の陣で豊臣方に加わり、戦後に播磨網干で自害したと伝わる。

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龍野赤松氏の一族

赤松祐高は、播磨の龍野城(兵庫県たつの市)を本拠とした龍野赤松氏の一族とされる人物である。辞典類には項目が見当たらず、事績の多くは確かな資料で裏づけにくい。父は赤松政秀、兄は斎村政広(赤松広秀)とする説明があるが、龍野赤松氏の系譜には諸説がある。永禄2年(1559)の生まれとされる。

龍野城は、赤松村秀が鶏籠山に築いた山城に始まり、赤松氏が4代にわたって城主を務めた。天正5年(1577)、羽柴秀吉が播磨に攻め入ると、龍野城は開城した。以後は蜂須賀正勝・福島正則ら秀吉配下の武将が城主となった。

秀吉の播磨平定と赤松一門

室町時代に播磨の守護を務めた赤松氏は、戦国時代には力を失い、一族が各地に分かれた。播磨の国人たちは、東の織田と西の毛利のあいだで去就に迷った。秀吉は天正5年に播磨に入り、天正8年(1580)に別所長治の三木城を落として播磨を平定した。

龍野赤松氏はこの流れのなかで早くに秀吉に降った。祐高も兄とともに秀吉に従ったとする説明がある。兄の政広はのちに但馬竹田城主となったが、関ヶ原の戦いの後に切腹した。

関ヶ原と大坂の陣をめぐる伝え

祐高のその後については、次のような話が伝わる。関ヶ原の戦いでは西軍から東軍に転じた。大坂の陣では豊臣方に加わった。落城後は播磨網干(姫路市)の大覚寺に立てこもり、池田利隆の兵に囲まれて自害した。慶長20年(1615)、57歳であったという。

これらは一般向けの事典に見える話で、本稿では史料による確認ができていない。

ゆかりの地

  • 龍野城・鶏籠山の龍野古城(たつの市):赤松氏が4代にわたり城主を務め、天正5年に秀吉に開城した
  • 大覚寺(姫路市網干区):大坂の陣の後、祐高が立てこもり自害したと伝わる寺

参考にした資料

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