さなだ まさゆき
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 真田氏 |
| 大名家 | 真田氏 |
| 家紋 | 六文銭 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 表裏比興・知謀 |
真田昌幸は信濃国小県郡の国衆・真田幸隆の三男として生まれた。当初は武田信玄の側近として仕え、信玄から高く評価される中で軍略・調略の才を磨いた。武田家滅亡後は織田信長、次いで本能寺の変後は北条・徳川・上杉という周辺の大勢力の間を巧みに渡り歩き、小勢力ながら独立を保つという離れ業を演じ続けた。
1585年の第一次上田合戦では、徳川家康が真田領没収を狙って派遣した大軍を、わずかな手勢と巧妙な地の利を活かした戦術で撃退し、家康に大きな屈辱を味わわせた。この勝利により真田家の武名は一躍天下に知れ渡ることとなる。
豊臣政権下では秀吉の裁定により本領を安堵され、上田を拠点に独立した大名としての地位を確立した。関ヶ原の戦いに際しては、家名存続のため長男・信之を東軍(徳川方)に、自身と次男・信繁(幸村)を西軍に分けるという苦渋の決断を下したと伝えられる。
第二次上田合戦では、関ヶ原へ向かう徳川秀忠率いる3万を超える大軍を、わずか2千の兵で足止めし、秀忠を本戦に遅参させるという大戦果を挙げた。しかし西軍が本戦で敗北したため、昌幸・信繁父子は死罪を免れたものの高野山麓の九度山へ配流の身となる。
表裏比興(変わり身が早く油断ならない者)と評されるほどの老獪な知略で知られ、二度にわたり徳川の大軍を退けたその戦いぶりは、戦国屈指の知将として高く評価されている。九度山での長い蟄居生活の末、1611年に65歳で世を去るが、その知略は子・信繁による大坂の陣での奮戦へと受け継がれていくこととなる。

