とも(にっしゅう)
| 地域 | 東海(尾張)・のち京都 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣秀吉・秀長の姉。豊臣秀次・秀勝(小吉)・秀保の母 |
| 大名家 | 豊臣家(豊臣一門) |
| 家紋 | 不明 |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 小袖、のち尼僧の衣 |
| 武将タイプ | 天下人の姉・三人の子を失った母 |
とも(日秀)は、豊臣秀吉と豊臣秀長の姉です。尾張中村の農家に生まれ、同じ村の弥助(のちの三好吉房)と結婚しました。秀吉の出世とともに豊臣一門となり、三人の息子は、関白となった豊臣秀次をはじめ、みな大名に取り立てられます。しかし三人とも若くして世を去り、とも自身は出家して「日秀(にっしゅう)」と名のり、子どもたちの菩提をとむらいながら92歳まで生きました。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀吉・秀長の姉として登場しています。
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とも(日秀)の生涯 年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天文3年(1534) | 尾張中村に、なか(のちの大政所)の娘として生まれる |
| のちに | 同じ村の弥助(のちの三好吉房)と結婚する |
| 永禄11年(1568) | 長男・秀次が生まれる |
| 永禄12年(1569) | 次男・秀勝(小吉)が生まれる |
| 天正7年(1579) | 三男・秀保が生まれる |
| 天正19年(1591) | 弟・秀長が亡くなる。秀保が秀長の跡を継ぐ。秀次が関白となる |
| 文禄元年(1592) | 秀勝(小吉)が朝鮮出兵の陣中で病死する |
| 文禄4年(1595)4月 | 秀保が大和十津川で亡くなる |
| 同年7月 | 秀次が高野山で切腹させられる(秀次事件)。夫・吉房は讃岐に流される |
| 文禄5年(1596) | 秀次の菩提をとむらうため、京都嵯峨に瑞龍寺を開く |
| 寛永2年(1625) | 亡くなる。92歳 |
尾張中村の農家の娘
ともは天文3年(1534)、尾張中村(名古屋市中村区)で、なか(大政所)の娘として生まれました。秀吉より3つ年上の姉で、弟に秀長、妹にあさひ(朝日姫)がいます(あさひと3人のきょうだい)。やがて同じ村の弥助と結婚し、農家の妻として暮らしました。
秀吉の出世と三人の息子
弟の秀吉が織田信長のもとで出世すると、ともの一家の運命も大きく変わります。夫の弥助は秀吉に取り立てられて三好吉房と名のり、のちに尾張の犬山城主となりました。息子たちも、子のいない秀吉にとって大切な一族として、次々に大名に取り立てられていきます。
長男の秀次は、はじめ宮部継潤や三好康長の養子となり、のちに近江八幡山城主、尾張清須城主を経て、天正19年(1591)には秀吉から関白の位をゆずられました。次男の秀勝(小吉)は、早世した於次秀勝の名を継ぎ、丹波亀山や美濃岐阜の城主となりました。三男の秀保は、叔父・秀長の養子となって大和郡山の城主を継ぎました。農家の娘だったともは、関白の母、三人の大名の母となったのです。
三人の子をすべて失う
しかし、ともの幸せは長くは続きませんでした。文禄元年(1592)、次男の秀勝が朝鮮出兵の陣中で病死します。24歳でした。文禄4年(1595)4月には、三男の秀保が大和の十津川で亡くなりました。17歳でした。
そして同じ年の7月、関白の秀次が謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹させられます。秀次の妻や子どもたちも、京都の三条河原で処刑されました(秀次事件)。夫の吉房も罪を問われて讃岐に流され、ともはわずか数か月のうちに、三人の息子と孫たちを失い、夫とも引き離されたのです。
日秀として ― 瑞龍寺を開く
ともは出家して「日秀」と名のり、子どもたちの菩提をとむらう日々を送りました。文禄5年(1596)、後陽成天皇から寺地と寺号などを与えられ、秀次の菩提をとむらうため京都嵯峨の村雲に瑞龍寺を開きます。瑞龍寺は日蓮宗でただ一つの門跡寺院となり、「村雲御所」と呼ばれました。ともは「瑞龍院日秀」とも呼ばれます。
瑞龍寺はのちに京都の西陣に移り、昭和36年(1961)には、秀次がかつて城主をつとめた近江八幡の八幡山城跡に移されました。今も山頂に寺があり、秀次と母・日秀をしのぶ場所となっています。
ともは、豊臣家の滅亡も見届け、寛永2年(1625)に92歳で亡くなりました。秀吉・秀長のきょうだいの中で、最も長く生きたことになります。
評価
ともは、弟たちの出世によって農家の娘から天下人一門の母となり、そして弟の政権の中で三人の子を失った女性でした。その生涯は、豊臣家の栄光と悲劇を、最も身近なところで背負ったものだったといえます。晩年は子どもたちの菩提をとむらい続け、開いた瑞龍寺は今も近江八幡に残っています。
ゆかりの地
- 村雲御所 瑞龍寺門跡(滋賀県近江八幡市):日秀が秀次の菩提をとむらうために開いた寺。昭和36年に京都から八幡山城跡へ移された
- 瑞泉寺(京都市中京区):三条河原で処刑された秀次の妻子をとむらう寺。秀次の墓もある
- 中村公園(名古屋市中村区):秀吉ら豊臣きょうだいが生まれた尾張中村。豊国神社がある
このイラストについて
このイラストは、京都の寺の庭と秋の紅葉を背に、白い頭巾をかぶり数珠を手にした尼僧姿のともを描いています。農家の出らしい温かみのある顔立ちに、三人の息子を失った深い悲しみを秘めたまなざしで、出家して子どもたちの菩提をとむらった晩年の日秀をイメージしました。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。













































