松井友閑 | 信長の側近で堺代官。宮内卿法印として松永久秀・荒木村重への使者をつとめ、秀吉のもとで天正14年に罷免された

松井友閑のイラスト(イメージ)

まつい ゆうかん

地域近畿(和泉・堺)
所属勢力・属性織田家 → 羽柴(豊臣)家
大名家松井家
家紋―
主武器―
衣装・甲冑法体・素襖
武将タイプ吏僚・交渉役

松井友閑(まつい ゆうかん)は、織田信長の側近として文書と交渉を担った吏僚である。生まれた年も亡くなった年もわかっていない。もとは室町幕府に仕えていたともいわれ、天正3年(1575)には宮内卿法印に任じられた。商業都市・堺の代官として町を治め、堺の茶人たちとの深いつながりを生かして信長の名物集めにかかわった。本能寺の変のあとも豊臣秀吉のもとで堺代官を続けたが、天正14年(1586)6月に罷免され、その後の消息ははっきりしない。

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目次

信長の側近として — 筆と言葉で仕える

友閑は、合戦で武功をあげるタイプの家臣ではなかった。信長の意思を文書にし、相手に伝え、交渉をまとめることが仕事だった。信長の家臣団には、こうした文書や交渉を受け持つ吏僚が何人もおり、友閑はその中心の一人だった。

天正3年(1575)、信長は朝廷に願い出て、家臣たちに官位を与えた。このとき友閑は宮内卿法印となった。法印は僧の最高位にあたる称号で、武将ではなく、文と教養で主君に仕える立場を表していた。

堺代官 — 豪商の町を治める

堺は南蛮貿易と鉄砲の生産で栄えた自治都市で、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる豪商たちが町を動かしていた。信長は堺を従えると、友閑を代官(政所)に任じて町を治めさせた。織田政権のもとで、堺の代官は友閑ひとりだった。

友閑は今井宗久・津田宗及・千利休ら堺の茶人とも深く交わった。信長が名物の茶器を集めた「名物狩り」や、茶の湯を家臣への恩賞に使った「御茶湯御政道」の裏には、堺の人脈を握る友閑の働きがあった(信長と秀吉の茶の湯・文化を比較)。

松永久秀・荒木村重への使者

天正5年(1577)8月、松永久秀が石山本願寺攻めの陣を離れて信貴山城にこもると、信長は使者を送って謀反の理由を問わせた。この使者が友閑だったとされる。翌天正6年(1578)、荒木村重が有岡城で背いたときも、友閑は明智光秀らとともに説得に向かった。

どちらの説得も実らず、久秀は信貴山城で滅び、村重は城を捨てて逃れることになる。主君にそむいた重臣のもとへ、まず話し合いのために送られるのが友閑の役目だった。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第20回「本物の平蜘蛛」では、久秀との談判を小一郎(秀長)たち兄弟がつとめる筋になっていたが、史実で使者とされるのはこの友閑である(第20回「本物の平蜘蛛」あらすじと史実)。

本能寺のあと、秀吉のもとで

天正10年(1582)の本能寺の変のあと、秀吉は友閑をそのまま堺代官にとどめた。堺の豪商たちとのつながりを持つ友閑は、天下取りを進める秀吉にとっても役に立つ存在だった。

しかし天正14年(1586)6月、友閑は堺代官を罷免される。理由ははっきりしない。その後の堺の奉行には石田三成ら秀吉の側近が任じられており、秀吉が堺を自分の直臣の手で治める体制へ切り替えたことがうかがえる。友閑のその後の消息は伝わっていない。

北野大茶湯の前年に退いた男

友閑が退いた翌年の天正15年(1587)10月、秀吉は北野大茶湯を開いた。茶頭をつとめたのは、利休・宗及・宗久という堺の茶人たちである。信長の時代には、天下人と堺の茶人のあいだに友閑のような側近が立っていた。秀吉の時代になると、茶人たち自身が天下人のすぐそばに立つようになる。友閑の退場は、茶の湯と政治の結びつき方が変わったことを示す出来事でもあった。

関わりの深い人物

ゆかりの地

  • 堺(大阪府堺市):友閑が代官として治めた豪商の町
  • 信貴山城跡(奈良県平群町):松永久秀が立てこもった城。友閑が使者として向かったとされる
  • 有岡城跡(兵庫県伊丹市):荒木村重が背いた城。友閑が説得に向かった
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