足利義昭はその後どうなったのか|信長に京を追われた最後の将軍は、鞆から秀吉のもとへ ― 1万石と穏やかな晩年【豊臣兄弟!第42回】

聚楽第の座敷で、出家した足利義昭と豊臣秀吉が向かい合って語らう様子を描いた日本画風イラスト

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で尾上右近さんが演じる足利義昭。信長とともに上洛して将軍になりながら、やがて信長と対立し、京を追われた「室町幕府最後の将軍」です。NHK出版のドラマガイドによると、第42回「北野大茶湯」で義昭がふたたび登場するとされています。では、京を追われたあとの義昭はどうなったのでしょうか。この記事では、天正元年(1573)の追放から、慶長2年(1597)に亡くなるまでの義昭の「その後」を、秀吉との関係を中心にたどります。

先に答え

京を追われた義昭は、備後の鞆(広島県福山市)に移って毛利氏の保護を受け、将軍の職を保ったまま信長と戦う道を探り続けました。

信長が本能寺で倒れたあと、義昭は秀吉の天下のもとで京に戻ります。天正16年(1588)に将軍を辞して出家し、秀吉から1万石と准三后という高い待遇を与えられました。

晩年は秀吉の話し相手を務めたともいわれ、朝鮮出兵では名護屋まで出陣しています。信長に追われた最後の将軍は、信長の家臣だった秀吉のもとで、61歳まで穏やかな晩年を送りました。

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目次

京を追われてからの足利義昭(年表)

年年齢できごと
天正元年(1573)37歳槇島城で信長に敗れ、京を追われる
天正元年〜37歳〜河内の若江城、紀伊の由良などに移る
天正4年(1576)40歳備後の鞆に移り、毛利輝元の保護を受ける
天正10年(1582)46歳本能寺の変で信長が死去
天正15年(1587)ごろ51歳京に戻る
天正16年(1588)52歳正月に将軍を辞して出家し、昌山と号す。秀吉から1万石
文禄元年(1592)56歳朝鮮出兵で肥前の名護屋に出陣
慶長2年(1597)61歳8月28日、大坂で死去

京を追われても「将軍」のまま

天正元年(1573)、義昭は山城の槇島城で信長に対して兵を挙げましたが、敗れて京を追われました。これをもって室町幕府は滅んだとされることが多いのですが、じつは義昭は将軍の職を正式に失ったわけではありません。

京都府宇治市にある槇島城の記念碑
槇島城の記念碑(京都府宇治市)。天正元年、義昭はこの城で信長に対して兵を挙げた

義昭は河内の若江城や紀伊の由良などを転々としたあと、天正4年(1576)に備後の鞆へ移り、中国地方の大名・毛利輝元の保護を受けました。鞆には義昭に従う幕臣たちが集まり、ここから各地の大名へ「信長を討て」という手紙を送り続けます。このため、鞆での義昭の拠点は「鞆幕府」と呼ばれることもあります。毛利氏が信長と戦い、のちに秀吉の中国攻めを迎え撃つ背景には、将軍・義昭の存在もありました。

本能寺の変と、秀吉の時代へ

天正10年(1582)、信長は本能寺の変で倒れました。義昭は京に戻ることを望み、天下人となっていく豊臣秀吉にも働きかけます。

炎に包まれる本能寺を描いた日本画風イラスト
本能寺の変(イメージ)。信長の死によって、鞆にいた義昭にも京へ戻る道が見えはじめた(くわしくは本能寺の変をわかりやすく解説)

この時期の話として、秀吉が義昭の養子となって将軍の職を得ようとしたものの、義昭に断られたという逸話が伝わっています。本当かどうかははっきりしませんが、秀吉が最終的に将軍ではなく「関白」として天下を治める道を選んだことと結びつけて語られることがあります。

出家して昌山に ― 秀吉から1万石

天正15年(1587)ごろ、義昭はついに京へ戻りました。そして天正16年(1588)の正月、将軍の職を辞して出家し、昌山道休と名乗ります。これで、足利将軍家による室町幕府は名実ともに終わりを迎えました。

足利将軍15代の一覧

義昭は、室町幕府の15代目で最後の将軍でした。足利将軍家の歴代将軍をまとめると、次のようになります(在職期間は目安です)。

代将軍在職期間ひとこと
初代足利尊氏1338〜1358年室町幕府を開く
2代足利義詮1358〜1367年南朝との戦いが続く
3代足利義満1368〜1394年南北朝を合一し、金閣を建てる。幕府の最盛期
4代足利義持1394〜1423年義満の子。安定した時代を築く
5代足利義量1423〜1425年19歳で亡くなる
6代足利義教1429〜1441年くじ引きで選ばれた将軍。嘉吉の乱で討たれる
7代足利義勝1442〜1443年10歳で亡くなる
8代足利義政1449〜1473年銀閣を建てる。在職中に応仁の乱が起こる
9代足利義尚1473〜1489年近江の陣中で亡くなる
10代足利義稙(義材)1490〜1493年、1508〜1521年一度追われ、のちに将軍に返り咲く
11代足利義澄1494〜1508年細川政元に擁立される
12代足利義晴1521〜1546年義輝・義昭の父
13代足利義輝1546〜1565年剣豪将軍。永禄の変で三好勢に討たれる。義昭の兄
14代足利義栄1568年三好勢に擁立されたが、京に入れないまま亡くなる
15代足利義昭1568〜1588年信長に擁立された最後の将軍。天正16年に将軍を辞して出家

初代の尊氏が幕府を開いてから、義昭が将軍を辞めるまで、およそ250年。その幕を引いたのが、信長に追われ、秀吉に養われた義昭だったのです。

秀吉は義昭を粗末に扱いませんでした。1万石の領地を与え、准三后という、皇后などに準ずる高い待遇を受けられるようにしています。かつて信長の家臣として義昭の上洛に従った秀吉が、今度は元将軍を養う立場になったのです。

秀吉の話し相手として ― 名護屋への出陣

晩年の義昭は、秀吉の話し相手を務めたともいわれます。室町将軍家の昔話や故実(しきたり)に詳しい義昭は、成り上がりの天下人にとって貴重な存在だったのかもしれません。

文禄元年(1592)、秀吉が朝鮮へ兵を送ると、義昭も肥前の名護屋(佐賀県唐津市)まで出陣しました。かつて信長を囲む大名の連合をつくろうとした元将軍が、今度は秀吉の大軍の一員として陣を構えたことになります。

玄界灘に面した肥前名護屋城と、そのまわりに並ぶ全国の大名の陣屋を描いた日本画風イラスト
肥前名護屋城(佐賀県唐津市)と、そのまわりに並ぶ大名の陣屋(イメージ)。義昭もここに陣を構えた

大坂での最期

慶長2年(1597)8月28日、義昭は大坂で61歳の生涯を終えました。秀吉が亡くなる、わずか1年前のことです。京を追われてから24年。信長、そして秀吉の天下を見届けた義昭の一生は、戦国時代の終わりそのものだったといえるかもしれません。

【考察】なぜ秀吉は義昭を大切にしたのか

ここからは筆者の考えです。秀吉が義昭を厚く遇した理由は、大きく2つあったと考えます。

1つ目は、元将軍を手厚く保護することで、自分の天下が古い秩序をきちんと受けつぐものだと示せたことです。武力で天下を取った秀吉にとって、室町将軍家の最後の当主が自分のもとで穏やかに暮らしている姿は、何よりの「お墨付き」になりました。

2つ目は、義昭が毛利氏と深い縁を持っていたことです。秀吉にとって毛利氏は、中国攻めで戦った相手であり、のちには大切な同盟者でした。毛利氏が長く保護してきた義昭を大切に扱うことは、毛利氏との関係を良く保つことにもつながったはずです。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の足利義昭

ドラマの義昭は、尾上右近さんが演じる、機転がきいて情に厚い人物として描かれてきました。小一郎(秀長)と藤吉郎(秀吉)にも親しみを見せていた義昭が、天下人となった秀吉とどんな顔で向き合うのかは、第42回の見どころの一つになりそうです。北野大茶湯については北野大茶湯 ― 豊臣秀吉と千利休が催した空前の大茶会、聚楽第については聚楽第 ― 天下人・豊臣秀吉の栄華で紹介しています。

まとめ

京を追われた足利義昭は、鞆で毛利氏の保護を受けながら将軍として信長に抵抗を続けました。信長の死後は秀吉の天下のもとで京に戻り、出家して1万石と高い待遇を受け、秀吉の話し相手として晩年を過ごしました。信長に擁立され、信長に追われ、信長の家臣だった秀吉に養われる。義昭の一生は、室町幕府から豊臣政権へと移り変わる時代を、そのまま映し出しています。人物の詳しいプロフィールは足利義昭のページをご覧ください。

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