本多利久 | 秀長に大和の高取城をまかされた老将。山城を大改修し、のちの高取藩の礎を築いた

本多利久のイラスト(イメージ)

ほんだ としひさ

地域近畿(大和・高取)
所属勢力・属性豊臣氏(秀長の家臣、のち秀保・秀吉に仕える)
大名家本多氏(大和高取)
家紋不詳
主武器不詳
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ城を守り築く実直な老将

本多利久(ほんだ としひさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将で、豊臣秀長の家臣として大和国の高取城(奈良県高取町)をまかされた人物である。官途名は因幡守。はじめは水野半右衛門と名乗った。生まれた年はわかっていない。天正17年(1589年)に秀長の命で高取城を大きく改修し、のちに「日本三大山城」の一つに数えられる城の基礎を築いた。家は子の本多俊政が継ぎ、関ヶ原の戦いのあと高取藩となった。

目次

尾張から秀吉・秀長のもとへ

利久ははじめ水野半右衛門と名乗り、尾張国岩倉城(愛知県岩倉市)の城主・織田信安に仕えていた。のちに羽柴秀吉に仕え、やがて秀吉の弟・秀長の家臣となった。天正7年(1579年)には、播磨の三木城攻めで手柄をあげている。

いつ本多の姓に改めたのかははっきりしない。江戸時代にまとめられた系図には、徳川家の本多忠勝(または本多正重)から本多の姓を与えられたとするものもある。徳川家の本多家とは別の家である。

高取城主となる

天正13年(1585年)、秀長が大和・紀伊・和泉をあわせて治めることになると、利久は脇坂安治に代わって大和の高取城主となった。高取城は大和と紀伊を結ぶ道をおさえる山の上の城で、大和郡山城を本拠とする秀長にとって、南の守りのかなめだった。

高取城の大改修

天正17年(1589年)、利久は秀長の命を受けて高取城の改修にとりかかった。軍学者の諸木大膳が普請の中心となり、高取城は石垣を備えた近世の城へと生まれ変わった。

山の上に広がる高取城は、江戸時代を通じて使われ、のちに岡山の備中松山城、岐阜の岩村城とともに「日本三大山城」と呼ばれるようになる。その基礎をつくったのが、利久の改修だった。

秀長の死後と晩年

天正の終わりごろ、利久は嫡男の俊政に1万石を分け与えた。天正19年(1591年)に秀長が亡くなると、跡を継いだ豊臣秀保に仕え、文禄3年(1594年)には伏見城の普請も分担している。文禄4年(1595年)に秀保が亡くなったあとも所領はそのままで、秀吉に仕えた。

慶長8年(1603年)に利久が亡くなると、俊政が家督を継いだとされる。秀長の家臣たちが関ヶ原でどちらについたのかは、秀長の家臣は徳川の世で何をしたのかでくわしく紹介している。

本多利久をめぐる人物

  • 主君:織田信安/豊臣秀吉/豊臣秀長/豊臣秀保
  • 子:本多俊政(高取藩初代藩主)
  • 前の高取城主:脇坂安治
  • 高取城の改修を担った人物:諸木大膳
  • 秀長家の同僚:藤堂高虎/桑山重晴/小堀正次

ゆかりの地

  • 高取城跡(奈良県高市郡高取町):利久が城主となり、天正17年に大改修した山城。「日本三大山城」の一つ
  • 大和郡山城(奈良県大和郡山市):主君・秀長の居城
  • 三木城跡(兵庫県三木市):秀吉の三木城攻めで利久が手柄をあげた城
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