天目山の戦いをわかりやすく解説|武田家はなぜ1か月で滅んだのか ― 勝頼の最期、裏切った重臣、土屋昌恒の片手千人斬り

天目山ふもとの崖道で、片手で藤づるをつかみ織田の兵を食い止める武田の武将を描いた日本画風イラスト

天正10年(1582)3月11日、甲斐の山あい、天目山のふもとで武田勝頼が自害し、戦国最強とうたわれた武田家は滅びました。織田・徳川の侵攻が始まってから、わずか1か月あまりのことです。父・信玄が亡くなってから9年。なぜ武田家はこれほど早く崩れたのか。天目山の戦い(田野の戦い)を、甲州征伐の流れ、裏切った家臣たち、最後まで従った人々からわかりやすく解説します。

先に答え

天目山の戦いは、織田信長の甲州征伐の最後の戦いです。新府城を捨てて逃げた武田勝頼は、頼った小山田信茂に裏切られ、天目山を目指す途中の田野で滝川一益の隊に追いつかれて、妻子とともに自害しました。

武田家が1か月あまりで崩れたのは、長篠の大敗、高天神城を見捨てたことによる信頼の低下、新府城築城の重い負担が重なり、木曽義昌・穴山信君(梅雪)ら一門や重臣が次々に離反したからです。

天目山の戦いの基本データ
いつ天正10年(1582)3月11日
どこ甲斐国の田野(山梨県甲州市大和町)。天目山棲雲寺へ向かう手前の日川沿い
対立武田勝頼 × 織田軍(滝川一益の隊)
兵力武田方は主従あわせて数十人とされる。織田方の数は不明
結果勝頼・嫡男信勝・北条夫人が自害し、武田家は滅亡
新府城跡 本丸へ続く鳥居と石段
勝頼が火を放って退いた新府城跡。本丸へ続く鳥居と石段(筆者撮影)
目次

甲州征伐から天目山まで ― 1か月あまりの年表

日付(天正10年)おもな出来事
2月1日信玄の娘婿・木曽義昌が織田方に寝返る
2月上旬信長が出陣を命じる。織田信忠が伊那口、徳川家康が駿河口、北条氏政が関東口、金森長近が飛騨口から攻め込む
2月中伊那の城が戦わずに次々と開城・逃亡
2月下旬一門の重臣・穴山信君(梅雪)が徳川方に寝返る
3月2日高遠城で仁科盛信(信玄の五男)が抗戦し、落城。武田方でただひとつの本格的な抵抗となる
3月3日勝頼が完成間もない新府城に火を放ち、小山田信茂の岩殿城を目指して退く
3月上旬小山田信茂が離反し、勝頼一行は郡内へ入れなくなる
3月11日田野で滝川一益の隊に追いつかれ、勝頼・信勝・北条夫人が自害
3月16日武田信豊が小諸城で家臣に裏切られ自害
3月下旬信長が甲斐に入る。小山田信茂は不忠を咎められ処刑される
高遠城址 高遠城の戦いの説明板
高遠城址に立つ「高遠城の戦い」の説明板(筆者撮影)

天目山の戦いに登場した主な武将(武田方)

人物立場甲州征伐での動き
武田勝頼武田家の当主新府城を捨てて退き、田野で自害。37歳
武田信勝勝頼の嫡男父とともに田野で自害。16歳
北条夫人勝頼の正室。北条氏政の妹実家へ帰るよう勧められたが断り、勝頼とともに自害。19歳
土屋昌恒勝頼の側近田野の崖道で敵を食い止め、勝頼に最後まで従って討死
仁科盛信信玄の五男高遠城で織田信忠の大軍に抗戦し、落城とともに自害
武田信豊信玄の弟・信繁の子小諸城へ逃れたが、家臣に裏切られ自害
跡部勝資・長坂光堅(釣閑斎)勝頼の側近『甲陽軍鑑』では「奸臣」と描かれる。武田滅亡の際に討たれる
小山田信茂郡内(甲斐東部)の領主勝頼を岩殿城に迎えず離反。のちに織田方に処刑される
穴山信君(梅雪)武田一門の重臣徳川方に寝返り、甲州征伐の流れを決定づける
木曽義昌信玄の娘婿最初に織田方へ寝返り、甲州征伐のきっかけをつくる
真田昌幸上野・信濃の武田家臣勝頼に岩櫃城へ来るよう勧めたとされる。武田滅亡後は織田に従う

天目山の戦いに登場した主な武将(織田・徳川方)

人物甲州征伐での動き
織田信忠信長の嫡男。甲州征伐の総大将として伊那口から攻め入り、高遠城を落とす
滝川一益信忠の軍に加わり、勝頼を田野に追い詰める。戦後は上野などを与えられる
河尻秀隆信忠を補佐して甲斐に入り、戦後は甲斐を任される
徳川家康駿河口から攻め入り、穴山信君を寝返らせる。戦後、勝頼の最期の地に寺(景徳院)を建てさせたと伝わる

武田家はなぜ1か月あまりで崩れたのか

① 長篠の大敗で宿老を失った

天正3年(1575)の長篠の戦いで、武田家は山県昌景・馬場信春・内藤昌豊ら信玄以来の宿老を一度に失いました。勝頼を支えるはずの経験豊かな重臣が、ここで大きく欠けます。

② 高天神城を見捨てた

天正9年(1581)、徳川家康に囲まれた遠江の高天神城に、勝頼は援軍を送れませんでした。城兵は討って出て全滅します。高天神城の戦いで「武田は味方を見捨てる」と受け止められたことは、国衆(各地の領主)の心を離れさせる大きなきっかけになりました。

③ 新府城築城の重い負担

勝頼は織田・徳川に備えて、甲府から韮崎の七里岩の上に本拠を移すことにし、新府城を築きました。急ぎの普請は家臣や領民に重い負担をかけます。完成して移り住んだのは天正9年の暮れ。そのわずか3か月後、勝頼は自らこの城に火を放つことになります。

④ 一門・重臣の離反

木曽義昌、穴山信君という武田の親族が相次いで寝返り、最後は頼った小山田信茂にも見放されました。外からの攻撃より、内側の崩れが武田家を滅ぼしたといえます。

崖道で織田の兵を食い止める武田の武将のイメージ
田野の崖道で敵を食い止めたと伝わる土屋昌恒(イメージ)

田野の最期と、土屋昌恒の「片手千人斬り」

小山田信茂に裏切られた勝頼一行は、武田家ゆかりの天目山棲雲寺を目指して日川沿いの山道を進みました。しかし田野で滝川一益の隊に追いつかれます。従う者は数十人ほどだったといわれます。

このとき、土屋昌恒が狭い崖道で敵を食い止めた話が伝わっています。片手で崖の藤づるをつかんで体を支え、もう片方の手の刀で、一列にしか進めない敵を次々に斬ったというものです。のちに「片手千人斬り」と呼ばれましたが、千人という数は誇張で、話の細部は後世の軍記物によるものです。ただ、最後まで勝頼のそばを離れなかった家臣がいたことは確かです。

勝頼は嫡男・信勝、正室の北条夫人とともに自害しました。勝頼37歳、信勝16歳、北条夫人19歳。北条夫人は実家の北条家へ戻るよう勧められても、勝頼のもとを離れなかったと伝わります。

天目山の戦いのその後

人物その後
小山田信茂織田方に降ろうとしたが、主君を裏切った不忠を咎められ、3月下旬に処刑される
穴山信君(梅雪)所領を安堵されるが、同年6月の本能寺の変の直後、堺から帰る途中で討たれる
河尻秀隆甲斐を与えられるが、6月の本能寺の変のあと、一揆に襲われて命を落とす
滝川一益上野などを与えられ関東に入るが、本能寺の変のあと北条と戦う(神流川の戦い)
真田昌幸武田滅亡後は織田に従い、本能寺の変のあとは北条・徳川・上杉の間で生き残りをはかる
徳川家康本能寺の変のあと、空白となった甲斐・信濃をめぐり北条と争い、手に入れる(天正壬午の乱)

武田家を滅ぼした3か月後、信長は本能寺で倒れました。旧武田領はたちまち奪い合いの場となり、徳川・北条・上杉、そして真田が入り乱れます。天目山は、武田家の終わりであると同時に、次の争いの始まりでもありました。

筆者のひとこと

新府城跡 本丸に並ぶ武田家臣の霊位標柱
新府城跡の本丸に並ぶ武田家臣の霊位標柱(筆者撮影)

新府城跡と高遠城を歩きました。

高遠城址 問屋門
高遠城址の問屋門(筆者撮影)

勝頼は、判断を誤った当主だったと思います。偉大な父・信玄の影にとらわれすぎず、まずは領国の力を充実させるべきでした。戦に勝つことでしか、父の代からの家臣団をまとめられないと思いこんでしまったのかもしれません。

一方の信玄も若くして家督を継ぎましたが、重臣たちとうまくやっていきました。やはり器の違いなのでしょうか。いつの時代も、跡を継ぐ2代目はつらいものだと感じます。

天目山でいちばん心に残るのは、土屋昌恒の「片手千人斬り」です。崖ぞいの細い道で、片手で藤づるをつかみながら敵を斬り続けたと伝わる奮戦は、武田家の最期を飾る話だと思います。

まとめ

天目山の戦いは、合戦というより、追い詰められた主従の最期でした。武田家を滅ぼしたのは織田軍の強さだけではなく、長篠の敗北、高天神城の見殺し、新府城の負担が積み重なり、一門や重臣の心が離れていったことでした。最後まで従った土屋昌恒らの姿は、だからこそいまも語り継がれています。

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