金ヶ崎の退き口をわかりやすく解説|浅井長政はなぜ信長を裏切ったのか — 朽木越えの撤退路と秀吉のしんがり、小豆袋の逸話【地図つき】

金ヶ崎の退き口でしんがりを務める木下秀吉のイラスト

元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を攻めていた織田信長のもとに、思いもよらない知らせが届きました。妹・お市の夫で、同盟相手のはずの浅井長政が裏切ったというのです。前を朝倉、背後を浅井にはさまれた信長は、すぐに撤退を決めました。これが「金ヶ崎の退き口」です。

この記事では、姉川の戦いの2か月前に起きたこの撤退劇を、浅井長政が裏切った理由、信長の撤退ルート、そして秀吉らが務めたしんがりに注目して解説します。大河『豊臣兄弟!』第14回「絶体絶命!」で描かれた場面の史実です。

金ヶ崎の退き口を3行でいうと

  • 元亀元年(1570)4月、信長は越前の朝倉攻めの途中、敦賀の金ヶ崎城まで攻め込んだ
  • そこへ浅井長政の離反の知らせが届き、信長は朽木谷を通ってわずかな供と京へ逃げ帰った
  • しんがり(最後尾で敵を食い止める役)には、池田勝正・明智光秀・木下秀吉らが残ったとされる
目次

金ヶ崎の退き口とは — 基本データ

時期元亀元年(1570)4月下旬
場所越前・敦賀(福井県敦賀市)の金ヶ崎城から、近江の朽木谷を経て京都まで
織田方織田信長、徳川家康、木下秀吉、明智光秀、池田勝正ら
相手朝倉義景(越前)、浅井長政(北近江)
結果信長は無事に京へ戻ったが、朝倉攻めは失敗に終わる
その後同年6月、信長は浅井・朝倉と姉川の戦いで戦う

なぜ信長は越前を攻めたのか

永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を15代将軍に就けました。信長は諸国の大名に上洛して将軍にあいさつするよう求めましたが、越前の朝倉義景はこれに応じませんでした。

元亀元年4月20日、信長は徳川家康らとともに京都を出陣します。名目は若狭の武藤氏を討つことでしたが、軍はそのまま越前へ向かい、4月25日に敦賀の天筒山城、26日には金ヶ崎城を攻め落としました。朝倉氏の本拠・一乗谷まで、あと一歩でした。

浅井長政はなぜ裏切ったのか — 主な説

ちょうどそのころ、信長の妹・お市を妻とし、同盟を結んでいた北近江の浅井長政が、朝倉方について兵を挙げたという知らせが届きます。長政がなぜ信長を裏切ったのか、理由を記した確かな史料はなく、いくつもの説があります。

説内容注意点
朝倉との約束説浅井と朝倉は古くからの盟友で、信長は「朝倉を攻めるときは浅井に相談する」と約束していた。それを破られた江戸時代の軍記物『浅井三代記』などに見える話で、約束の実在は確かめられない
父・久政と家臣の意向説隠居していた父の浅井久政や、朝倉との関係を重んじる家臣たちが、信長との同盟に反対した家中の対立は考えられるが、長政自身の判断の比重はわからない
家臣扱いへの反発説信長が将軍の権威を背景に、浅井を同盟相手ではなく家臣のように扱い始めたことに反発した近年の研究で注目される見方
領国を守るため説信長の勢力が若狭・越前に広がると、北近江の浅井は織田領に囲まれてしまう。独立を保つために先手を打った地理的な状況からの推測

どれか一つではなく、いくつかの理由が重なったと考える研究者が多いようです。

撤退ルート — 朽木越えで京へ

金ヶ崎の退き口の地図。京都から若狭を経て敦賀の金ヶ崎城へ進軍し、朽木谷を通って京都へ撤退した
信長の進軍(青)と撤退路(赤)

4月28日ごろ、信長は撤退を決めました。来た道は浅井領の近くを通るため、信長は琵琶湖の西の山あいを抜ける朽木越えを選びます。朽木谷を治める朽木元綱は、はじめは信長を討つのではないかと疑われましたが、同行していた松永久秀が説得し、信長一行を通したと伝わります。

信長は4月30日、わずかな供回りだけで京都に戻りました。大軍を率いて出陣してから、わずか10日ほどのことでした。

しんがりは誰だったのか

撤退する軍の最後尾で、追ってくる敵を食い止める役目を「しんがり(殿)」といいます。もっとも危険な役目です。

江戸時代の書物では、木下秀吉がみずから願い出て金ヶ崎城に残り、しんがりを務めて名を上げたと語られてきました。一方、近年は当時の手紙などから、摂津の池田勝正が大将格としてしんがりを率い、明智光秀や木下秀吉もともに残ったと考えられています。徳川家康もしんがりに加わったとする説がありますが、確かな史料で裏づけるのは難しいようです。

いずれにしても、秀吉にとって金ヶ崎は命がけで信長の撤退を支えた戦いであり、のちの出世につながる大きな手柄となりました。大河では、秀長(小一郎)が兄を支える姿も描かれました(第14回「絶体絶命!」のあらすじと振り返り)。

お市の「小豆袋」の逸話は本当?

金ヶ崎の退き口といえば、お市が両端をひもで縛った小豆の袋を兄・信長に送り、「袋のねずみ」、つまり前後から挟み撃ちにされる危険を知らせた、という逸話が有名です。

ただしこの話は、江戸時代に書かれた『朝倉家記』などに見えるもので、同じ時代の記録にはありません。後世に作られた話と考えられています。それでも、夫と兄の間で揺れるお市の立場をよく表す話として、ドラマや小説で繰り返し描かれてきました。

金ヶ崎の退き口に登場した人物

人物立場金ヶ崎での役割・その後
織田信長織田家当主朝倉攻めを率いるが、浅井の離反で撤退。朽木越えで京へ戻る
浅井長政北近江の大名・信長の義弟朝倉方について信長に背く。天正元年(1573)、小谷城で自害
お市の方信長の妹・長政の妻小豆袋の逸話で知られる。のちに三姉妹を連れて信長のもとへ戻る
浅井久政長政の父信長との同盟破棄を主張したとされる。小谷城で自害
朝倉義景越前の大名金ヶ崎城を奪われるが、浅井の挙兵で信長を退ける。天正元年に滅亡
木下秀吉織田家の武将しんがりの一人として撤退を支え、名を上げる
木下秀長(小一郎)秀吉の弟兄とともに戦ったと考えられる。大河では兄を支える姿が描かれた
明智光秀足利義昭・信長に仕えるしんがりに加わったとされる
池田勝正池田勝正摂津の武将しんがりの大将格だったと考えられている
徳川家康信長の同盟者朝倉攻めに同行。撤退にも加わった
松永久秀大和の武将朽木元綱を説得し、信長の通過を助けたと伝わる
朽木元綱朽木元綱近江朽木谷の領主信長一行を通し、命を救う形となった

その後 — 姉川の戦いへ

京に戻った信長は、5月に岐阜へ帰る途中、千草越えの山道で杉谷善住坊に鉄砲で狙われますが、かすり傷ですみました。そして6月、信長は家康とともに北近江へ攻め込み、浅井・朝倉の連合軍と姉川の戦いで激突します。金ヶ崎の退き口は、信長と浅井・朝倉の3年にわたる戦いの始まりでした(姉川の戦いをわかりやすく解説)。

金ヶ崎の退き口のゆかりの地

  • 金ヶ崎城跡(福井県敦賀市):敦賀湾を見下ろす山城の跡。金崎宮の裏山にあり、「退き口」の舞台
  • 天筒山城跡(福井県敦賀市):金ヶ崎城の背後の山。信長が最初に攻め落とした
  • 朽木(くつき)(滋賀県高島市):信長が通った朽木谷。朽木氏の館跡(興聖寺の旧秀隣寺庭園)が残る
  • 小谷城跡(滋賀県長浜市):浅井長政の居城

よくある質問

Q. 金ヶ崎の退き口はいつ?

A. 元亀元年(1570)4月の終わりです。信長は4月28日ごろ撤退を決め、30日に京都へ戻りました。

Q. 金ヶ崎のしんがりは秀吉ではない?

A. 秀吉もしんがりに加わっていたと考えられますが、近年は池田勝正が大将格で、明智光秀らも残ったとする見方が有力です。秀吉一人の手柄とする話は、後世に強調されたものといえます。

Q. 金ヶ崎の戦いと姉川の戦いの関係は?

A. 金ヶ崎で浅井長政に裏切られた信長が、その2か月後に浅井・朝倉への反撃として戦ったのが姉川の戦いです。

まとめ

金ヶ崎の退き口は、浅井長政の裏切りによって、信長が生涯でも指折りの危機に立たされた撤退戦でした。朽木越えで命拾いした信長は、すぐに体勢を立て直し、姉川の戦いへと向かいます。しんがりで撤退を支えた秀吉にとっても、天下人への道を開く大きな一歩となりました。

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