大和郡山城とは ── 豊臣秀長が百万石で築いた大和の要、逆さ地蔵と転用石の石垣

桜と石垣、天守台を望む大和郡山城のイメージ画

2026年の大河ドラマ第38回で、豊臣秀長が大和を治める拠点として描かれたのが大和郡山城である。奈良盆地の北、郡山の地に築かれたこの城は、もともと筒井順慶の居城だったものを、秀長が百万石の大名にふさわしい近世の城へと大きく造り替えた。石が足りずに墓石や石仏まで積み上げた石垣、存在が長く議論されてきた天守台など、見どころと謎の多い城でもある。

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筒井順慶が築き、秀長が百万石の居城にした

大和郡山城の築城は、天正八年(一五八〇)、織田信長に従った筒井順慶が始めたとされる。順慶の死後、養子の定次が伊賀へ移されると、入れ替わりに天正十三年(一五八五)、豊臣秀長が大和・和泉・紀伊のおよそ百万石を与えられて郡山に入った。秀長はそれまでの城を、天下人の弟の居城にふさわしい近世城郭へと大改修し、あわせて城のまわりに計画的な町割りをしいた。武で大和を抑えた松永久秀の時代とは異なり、城と城下町をひとつの統治の装置として整えていったところに、秀長らしさがある。郡山の城下町づくりについては豊臣秀長の城下町経営でくわしく触れた。

石が足りない ── 墓石や石仏まで積んだ石垣

郡山城の石垣を語るうえで欠かせないのが「転用石」である。大和は良質の石材に乏しく、秀長の大普請では石が決定的に足りなかった。そこで領内各地から、墓石や石仏、寺の礎石までがかき集められ、石垣の石として積み込まれた。なかでも有名なのが、裏返しに積まれて顔が下を向いてしまった地蔵、いわゆる「逆さ地蔵」である。平城京の羅城門のものと伝わる巨大な礎石も石垣に組み込まれている。信仰の対象だった石仏までも用いた石垣は、短期間で巨城を築かねばならなかった普請の切迫を、いまに伝えている。

天守はあったのか ── 天守台の謎

郡山城には立派な天守台が残っているが、その上に本当に天守がそびえていたのかは、長く議論されてきた。史料の記述が乏しく、早くに失われたとも、あるいは完成しなかったとも言われてきたが、近年の発掘調査では天守が存在した可能性を示す成果も報告されている。いずれにせよ、百万石の居城にふさわしい天守台が築かれたこと自体が、秀長の大和支配の格の高さを物語る。現在、天守台は展望施設として整えられ、奈良盆地を一望できる。

秀長のあとの郡山城 ── 増田長盛から柳沢家へ

秀長が天正十九年(一五九一)に没すると、郡山城は養子の秀保に受け継がれるが、秀保も若くして世を去り、豊臣家の直臣・増田長盛が入る。関ヶ原のあとは一時廃城同然となり、江戸時代には水野・松平・本多といった徳川譜代の大名が次々に入れ替わった。享保九年(一七二四)に柳沢吉里が入封してからは柳沢家の居城として落ち着き、幕末まで大和の中心であり続けた。桜の名所として知られ、金魚の養殖で有名な城下町の礎も、この長い歴史のなかで築かれていった。秀長という人物の晩年と死については豊臣秀長の死にまとめている。

大河第38回と郡山城

第38回では、秀長が奈良の商いを太らせ、人と物を呼び込もうとする姿が描かれた。その舞台こそ、この郡山の城と城下町である。古い決まりで新しい店が入りにくい町に、税を免じ、元手を貸して商人を誘う——力ではなく仕組みで大和をまとめようとした秀長の統治は、城と町を一体で設計する発想と地続きだった。大河のタイトル「和を以て、大和をなす」に込められた意味は「和を以て、大和をなす」とは何かで、検地をめぐる寺社との向き合い方は秀長はなぜ検地を断行できたのかで読み解いている。

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