城のまわりに堤を築き、川の水をせき止めて城を水びたしにする「水攻め」。戦国時代には珍しい戦法で、特に有名な三つが日本三大水攻めと呼ばれます。羽柴秀吉による備中高松城の水攻め(1582年)、太田城の水攻め(1585年)、そして石田三成による忍城の水攻め(1590年)です。三つはいずれも豊臣秀吉が関わった戦いですが、結果はそれぞれ違いました。この記事では、三大水攻めを一覧で比べながら、なぜ秀吉は水攻めを好んだのか、なぜ忍城だけが落ちなかったのかを、わかりやすく解説します。

日本三大水攻めを一覧で比べる
| 備中高松城 | 太田城 | 忍城 | |
|---|---|---|---|
| いつ | 天正10年(1582年)4〜6月 | 天正13年(1585年)3〜4月 | 天正18年(1590年)6〜7月 |
| 場所 | 備中(岡山県岡山市) | 紀伊(和歌山県和歌山市) | 武蔵(埼玉県行田市) |
| 攻めた側 | 羽柴秀吉 | 羽柴秀吉(紀州攻め) | 石田三成(小田原征伐の一部) |
| 守った側 | 清水宗治(毛利方) | 太田左近ら(太田党・雑賀衆の一部) | 成田長親・甲斐姫ら(北条方の成田家) |
| 堤の長さ | 約3〜4kmとされる(短かったとする説も) | 約6kmとされる | 約28kmとされる(「石田堤」) |
| 結果 | 講和。宗治が切腹して開城 | 開城。主だった者が自害 | 落ちないまま、小田原城の降伏後に開城 |
| その後 | 本能寺の変 → 中国大返し | 紀州平定 → 四国攻め | 北条氏滅亡、天下統一へ |
なぜ秀吉は水攻めを使ったのか
三つの城には共通点があります。どれも山の上ではなく、川や沼の多い低い土地に建つ城でした。こうした城は、周りの湿地が天然の堀になって大軍が近づきにくく、力攻めをすると攻める側の損害が大きくなります。
そこで秀吉は、低い土地にあるという城の特徴を逆に利用し、周りを堤で囲んで水をため、城を孤立させる方法をとりました。兵を失わずに相手を追い詰められるうえ、大工事そのものが「秀吉にはこれだけの力がある」と見せつけることにもなりました。たくさんの人や銭・米を動かせる秀吉ならではの戦い方といえます。
備中高松城の水攻め(1582年) — 本能寺の変の最中に

中国地方の毛利家を攻めていた秀吉は、沼地に守られた備中高松城を囲み、わずか12日ほどで堤を築いて水攻めにしました。毛利の援軍も手が出せないうちに、京で本能寺の変が起こります。秀吉は信長の死を隠して講和をまとめ、城主・清水宗治は城兵の命と引きかえに、水の上の小舟で切腹しました。秀吉はそこから「中国大返し」で京へ急ぎます(くわしくは「備中高松城の水攻めをわかりやすく解説」)。
太田城の水攻め(1585年) — 紀州攻めのしめくくり
天下人への道を歩み始めた秀吉は、天正13年、根来寺や雑賀衆など、紀伊の勢力を攻めました(紀州攻め)。最後まで抵抗したのが、太田左近らが守る太田城です。
秀吉は城の周りに長い堤を築き、紀ノ川の水を引き込みました。城は1か月ほど持ちこたえましたが、やがて開城し、主だった者たちは自害して城兵の命を救ったと伝わります。この戦いでは、秀吉の弟・豊臣秀長も紀州攻めの大将の一人として活躍しました(くわしくは「太田城の水攻めをわかりやすく解説」)。
忍城の水攻め(1590年) — ただ一つ落ちなかった城

天正18年の小田原征伐では、北条氏に味方する関東の城が次々に攻められました。武蔵の忍城を攻めたのは石田三成です。城主の成田氏長は小田原城に入っていて、城を守ったのは一族の成田長親や、氏長の娘・甲斐姫らでした。
三成は忍城の周りに長さ約28kmともいわれる堤(石田堤)を築いて水攻めにしましたが、城は沈みませんでした。忍城は周りより少し高い場所にあって「浮き城」と呼ばれ、さらに堤の一部が切れて、攻める側に被害が出たともいわれます。結局、忍城は小田原城が降伏したあと、城主の氏長のすすめで開城しました。
この水攻めは三成の判断ではなく、秀吉の指示だったことが、秀吉の書状からわかっています。それでも「三成は戦が下手」という話の材料にされてきました。近年は、そうした見方は見直されつつあります(くわしくは「忍城の水攻めをわかりやすく解説」)。

三つの水攻めの違いをまとめると
- 備中高松城:水攻めがうまくいき、相手を講和に追い込んだ。ただし最後を決めたのは本能寺の変という大事件だった
- 太田城:水攻めで城を孤立させ、開城させた。秀吉が紀伊を平定する決め手になった
- 忍城:大きな堤を築いても城は落ちなかった。土地の高さや水の量など、条件が合わないと水攻めは効かないことを示した
三大水攻めのゆかりの地
- 高松城址公園・蛙ヶ鼻築堤跡(岡山県岡山市北区):備中高松城の跡と、水攻めの堤の遺構
- 太田城跡(来迎寺あたり)(和歌山県和歌山市太田):太田城があったとされる場所。周辺に水攻めの堤の跡と伝わる場所がある
- 忍城跡・行田市郷土博物館(埼玉県行田市):御三階櫓が再建されている
- 石田堤史跡公園(埼玉県鴻巣市):石田堤の一部が残る
- 丸墓山古墳(埼玉県行田市・さきたま古墳公園):三成が陣を置いたと伝わる古墳
※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。










































