泉識部 | 根来鉄砲隊の実戦指揮官。石山合戦や紀州征伐において圧倒的射撃精度で織田・豊臣軍を牽制

泉識部

いずみ しきぶ

地域近畿
所属勢力・属性根来衆
大名家根来衆
家紋丸に違い鷹の羽
主武器鉄砲・大槍
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ勇猛・前線大将

根来鉄砲隊の実戦指揮官。石山合戦や紀州征伐において圧倒的射撃精度で織田・豊臣軍を牽制。

目次

泉識部とは

泉識部は、根来衆の鉄砲隊を率いたと伝えられる武士です。生没年や出自など、くわしいことを伝える史料は少なく、その姿の多くは伝承によっています。

根来衆

根来衆は、紀伊の根来寺に属する行人や地侍たちの集まりです。鉄砲を早くから取り入れ、畿内でも指折りの武力を持っていました。

鉄砲隊の戦い方

鉄砲は、弾を込めるのに時間がかかるため、何人かで交代しながら撃つなどの工夫が必要でした。隊をまとめて指図する者の腕が、戦いの行方を左右しました。

根来の鉄砲の名手

根来衆には、鉄砲の名手と呼ばれる者が多くいたと伝えられます。その腕前は、雇い手の大名から高く評価されました。

石山合戦

信長と本願寺の戦いでは、紀伊の鉄砲衆がさまざまな形で関わりました。根来衆の動きは時期によって異なり、一様ではありませんでした。

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)、根来衆は雑賀衆とともに秀吉に対抗し、和泉の岸和田城を攻めるなどしました。

岸和田城

岸和田城は、秀吉方の中村一氏が守っていた城です。紀伊の勢力が大坂へ攻め上る道の上にあり、両者の争いの最前線となりました。

秀吉の紀州攻め

天正13年(1585年)、秀吉は大軍で紀州に攻め込みました。和泉の千石堀城などで激しい戦いがあり、根来寺も焼き討ちにあいました。

千石堀城の戦い

千石堀城では、根来衆が激しく抵抗しましたが、城は火矢で燃え、城兵の多くが命を落としたと伝えられます。

根来衆のその後

紀州攻めののち、根来衆は力を失いました。鉄砲の技術を持つ者の中には、ほかの大名に仕えた者もいたとされます。

根来寺の大塔

根来寺の大塔は、秀吉の焼き討ちを免れて今も残り、国宝に指定されています。柱には、当時の戦いのものとされる弾の跡が残っていると伝えられます。

火縄銃の仕組み

火縄銃は、火のついた縄を火皿に落として火薬に火をつけ、弾を撃ち出す仕組みです。雨に弱く、火縄の扱いに慣れが必要でした。

根来衆と雑賀衆

根来衆と雑賀衆は、ともに紀伊の鉄砲集団として知られますが、宗派も立場も異なり、別々に動くことも多くありました。

和泉の城

秀吉の紀州攻めでは、和泉の千石堀城・積善寺城・沢城などの城が戦いの舞台となりました。

鉄砲の名人たち

戦国時代には、鉄砲の名人として名を残した人物が各地にいました。その技は、のちに砲術の流派として伝えられました。

評価

識部は、伝承の色の濃い人物ですが、鉄砲で知られた根来衆の戦いぶりを伝える武士の一人として名が残っています。

このイラストについて

このイラストは、城壁と陣の旗を背に、鉄砲を手にした識部を描いています。

鉄砲を構えて立つ姿と、後ろに並ぶ兵で、鉄砲隊を率いた指揮官の役目を表しました。

石垣と旗の並ぶ陣は、根来衆が戦った和泉や紀伊の戦場をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

根来衆

紀伊の根来寺(新義真言宗)の僧兵集団。根来寺は多くの子院と広大な寺領を持ち、僧兵たちは鉄砲をいち早く取り入れたことで知られる。種子島から鉄砲を持ち帰ったとされる津田監物(算長)も根来寺の関係者と伝えられる。

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家臣団

杉坊明算津田監物津田算長
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