かまち あきひろ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 筑後蒲池氏 |
| 大名家 | 筑後蒲池氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 名門・割拠 |
筑後国上妻郡の山下城(八女市)の城主で、蒲池氏の分家「上蒲池」の当主。大友義鑑から偏諱を受けた。天正6年(1578)の耳川の戦いの後、龍造寺隆信の筑後侵攻に山下城で抵抗し、のちに和睦したとされる。
目次
上蒲池家と山下城
蒲池鑑広(かまち あきひろ)は筑後の有力国人・蒲池氏の一族である。本家は下蒲池と呼ばれ柳川城を拠点とした。鑑広は分家の上蒲池家の当主で、下蒲池の蒲池鑑盛とは従兄弟とされる。名の「鑑」は豊後の大友義鑑から与えられた偏諱(主君の名の一字)とされる。
鑑広の居城は筑後国上妻郡の山下城(現・福岡県八女市立花町)である。矢部川と白木川に面した独立峰の山頂にあり、麓からの高さは約50メートル。永正年間(1504〜1521)に蒲池親広が居館を構え、のちに鑑広が城を築いたとされる。
龍造寺隆信の筑後侵攻
天正6年(1578)、大友宗麟は日向の耳川の戦いで島津氏に大敗した。この隙に肥前の龍造寺隆信が筑後へ進出し、多くの筑後国人が龍造寺方に転じた。
鑑広は家老の矢加部国広らと山下城に籠もり、龍造寺勢に抵抗したとされる。大友氏の援軍は望めず、秋月種実の仲介で龍造寺氏と和睦したという。山下城が龍造寺方に下ったのは天正7年(1579)とされる。
子・鎮運の代と上蒲池家の行方
鑑広の後、嫡男の鎮運(家恒)が山下城主となった。鎮運は龍造寺方にありながら大友氏とも通じたとされ、天正12年(1584)には立花道雪らの大友勢に攻められて降った。その後は島津氏に従った。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州国分で蒲池氏は所領を移され、山下城は筑紫広門に与えられた。城は慶長6年(1601)、田中吉政のもとで廃城になったとされる。
ゆかりの地
- 山下城跡(八女市立花町北山):鑑広が築いたとされる上蒲池家の居城























