やまもと かんすけ
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 武田氏(信玄家臣) |
| 大名家 | 山本氏 |
| 家紋 | 不詳 |
| 主武器 | 太刀・槍 |
| 衣装・甲冑 | 法体に具足(隻眼・眼帯の姿は『甲陽軍鑑』由来のイメージ) |
| 武将タイプ | 伝説の軍師/実在の使者 |
山本勘助(やまもと かんすけ)は、武田信玄に仕えた武将である。江戸時代に広く読まれた『甲陽軍鑑』では、城づくりや戦術に通じた軍師として描かれ、「きつつき戦法」を献策した人物として知られる。いっぽうで、確かな史料に名前が見えないことから、長く架空の人物ではないかといわれてきた。近年、「山本菅助」と書かれた武田家の文書が見つかり、武田家臣として実在したことは確かになっている。
- 武田信玄の家臣。史料での表記は「山本菅助」。生年は明応2年(1493年)説・明応9年(1500年)説などがあり、出身も三河牛窪説など諸説ある
- 『甲陽軍鑑』では信玄の軍師として城づくりや戦術で活躍する。市河家文書などから、信玄の使者を務めた家臣だったことが確かめられている
- 永禄4年(1561年)、第4次川中島の戦いで戦死したとされる。「きつつき戦法」の献策と討死の話は『甲陽軍鑑』による
『甲陽軍鑑』が描いた軍師
『甲陽軍鑑』によると、勘助は若いころ諸国を回って兵法を学び、今川家に仕官を望んだものの受け入れられなかった。その後、天文12年(1543年)ごろに武田晴信(信玄)に召し抱えられ、信濃攻めで城攻めや築城に力を発揮したという。片目で足が不自由だったという姿も、この書物に書かれたものである。
江戸時代には、武田家の戦い方を学ぶ「甲州流軍学」が広まり、勘助はその祖のように扱われた。講談や小説でも活躍し、信玄の名軍師というイメージが定着していった。ただし、軍師としての働きの多くは『甲陽軍鑑』に基づく話で、確かな史料で裏づけられているわけではない。
「架空の人物」説と文書の発見
明治時代以降、勘助の名が確かな史料に見えないことから、架空の人物ではないかという説が唱えられた。流れが変わったのは昭和44年(1969年)、北海道で見つかった市河家文書である。弘治3年(1557年)に晴信が信濃の市河藤若に送った書状に「山本菅助」が口上を伝えるとあり、使者を務めた家臣がいたことが分かった。
さらに平成20年(2008年)には群馬県で真下家所蔵文書が見つかり、天文17年(1548年)に晴信が菅助の働きをほめて知行を与えた文書などが確認された。こうして「山本菅助」という武田家臣の実在は確かになった。ただし文書から見えるのは使者や知行を受ける家臣の姿で、軍師だったかどうかは別の問題として議論が続いている。
川中島での最期
永禄4年(1561年)、信玄は越後の上杉謙信と川中島で激突した(第4次川中島の戦い)。『甲陽軍鑑』によれば、勘助は別働隊で上杉軍を背後から突き、逃げ出したところを本隊が討つ「きつつき戦法」を献策した。しかし謙信に見抜かれ、武田軍は苦戦に陥る。責任を感じた勘助は敵中に突入し、討死したという(「川中島の戦いをわかりやすく解説」参照)。
勘助がこの戦いで亡くなったことは広く通説となっている。長野市松代には、江戸時代に松代藩士らが整えたと伝わる勘助の墓があり、今も訪れる人が多い。
山本勘助をめぐる人物
ゆかりの地
- 山本勘助の墓(長野県長野市松代町):江戸時代に松代藩士らが整えたと伝わる墓
- 八幡原史跡公園(長野県長野市):第4次川中島の戦いの舞台
- 長谷寺(愛知県豊川市牛久保町):勘助の遺髪を納めたと伝わる塚がある寺
この人物をもっと知る本
- 【歴史小説】井上靖『風林火山』(新潮文庫):勘助を主人公に信玄との主従を描いた名作。大河ドラマの原作にもなった



















