あけち ひでみつ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 明智家臣 |
| 大名家 | 明智 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・大槍 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒具足 |
| 武将タイプ | 「明智左馬助」・琵琶湖渡り |
明智秀満は明智光秀の重臣で、光秀の娘を妻とした織豊期の武将である。前名は三宅弥平次。天正9年ごろ丹波福知山城を預かり、本能寺の変では先陣を務めた。山崎の戦いの後、近江坂本城で光秀の妻子を刺し、自害した。
出自と明智家での立場
秀満の出自ははっきりしない。初めは三宅弥平次と名乗り、のちに明智姓を与えられて明智弥平次と称した。明智光安の子で光秀の従弟とする説もあるが、確かな裏付けはない。生年を天文6年(1537)とする辞書がある一方、不詳とする辞書もある。
天正6年(1578)以降、光秀の娘を妻に迎えた。この娘は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に背いたため離縁されていた。これにより秀満は光秀の一門に準じる重臣となった。
江戸時代の軍記物『明智軍記』などでは「明智左馬助光春」の名で登場する。「光春」は俗称とされ、同時代の史料で確認できる名は秀満である。
福知山城と本能寺の変
天正9年(1581)ごろ、秀満は丹波福知山城(京都府福知山市)を預かった。この年、堺の茶人津田宗及が福知山を訪れ、秀満のもてなしを受けている。
天正10年(1582)6月2日、光秀は京都本能寺の信長を襲った。秀満はこの本能寺の変で先陣を務めた。出陣前、光秀が重臣に謀反の決意を打ち明けた際、秀満がまず同意したという話も伝わる。変の後は安土城に入り、その守備にあたった。
湖水渡りの伝承と坂本城での最期
6月13日、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた。敗報を受けた秀満は、安土から光秀の居城である近江坂本城(滋賀県大津市)へ向かった。途中の大津付近で秀吉方に道をふさがれ、馬に乗ったまま琵琶湖を渡ったという「明智左馬助の湖水渡り」の話が残る。ただしこれは後世の伝承であり、実際には湖岸沿いの道を騎馬で駆け抜けたとみる見方がある。
坂本城は堀秀政の軍に囲まれた。『太閤記』は、秀満が城内の名物の道具類を焼いてしまうのは惜しいとして、目録を添えて寄せ手の堀直政に引き渡したと伝える。その後、秀満は光秀の妻子と自らの妻を刺し、城に火を放って自害した。日付は6月15日とされ、14日夜とする記録もある。
ゆかりの地
- 福知山城(京都府福知山市):天正9年ごろ秀満が預かった城
- 坂本城跡(滋賀県大津市):秀満が最期を遂げた光秀の居城


















