えんどう たねとし
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 美濃国人→織田家 |
| 大名家 | 遠藤家(木越遠藤家) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 地方割拠 |
遠藤胤俊(1546〜1570)は美濃郡上郡の木越城主。叔父盛数とともに「両遠藤」と呼ばれた家の当主で、従弟の遠藤慶隆と一時争ったのち和睦し、織田信長に従った。元亀元年の志賀の陣で、近江堅田にて討死したとされる。
目次
木越遠藤家と「両遠藤」
遠藤胤俊は天文15年(1546)の生まれとされる。父は遠藤胤縁である。遠藤氏は美濃国郡上郡の国人で、郡上の領主・東氏の家臣筋にあたる。
永禄2年(1559)、父胤縁は東常慶の側に殺害された。胤俊は若くして家督を継ぎ、祖父の胤好が後見したとされる。その後、叔父の遠藤盛数が東氏を倒して八幡城主となり、所領の半分を胤俊に分けた。胤俊は木越城を本拠とし、八幡の盛数家と並ぶ「両遠藤」と呼ばれるようになった。
慶隆との対立と和睦
永禄7年(1564)、盛数が没し、子の慶隆が13歳で跡を継いだ。この時、胤俊は八幡城を攻め取ったとされる。しかし慶隆側に長井道利の援軍が入り、翌年に和睦して城を返した。
その後、織田信長が稲葉山城を落として美濃を押さえると、胤俊は慶隆とともに信長に従ったとみられる。
堅田での最期
元亀元年(1570)、信長は浅井・朝倉連合軍と近江で対峙した。これを志賀の陣という。胤俊は慶隆とともに織田家臣・坂井政尚の配下に入り、琵琶湖西岸の堅田を守った。
同年11月26日、浅井・朝倉軍が堅田を攻め、胤俊は政尚とともに討死したとされる。25歳前後であった。木越遠藤家は弟の胤基が継いだ。
ゆかりの地
- 木越城跡(岐阜県郡上市):胤俊の居城
- 郡上八幡城(岐阜県郡上市):一時胤俊が攻め取ったとされる八幡城の後身



















