おだ のぶなが
| 地域 | 東海・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田氏 |
| 大名家 | 織田氏 |
| 家紋 | 丸に木瓜 |
| 主武器 | 太刀・鉄砲 |
| 衣装・甲冑 | 南蛮胴具足 |
| 武将タイプ | 革新・苛烈 |
織田信長は、尾張国(現在の愛知県西部)の小大名・織田信秀の嫡男として生まれた。若年期は奇抜な服装や振る舞いから「うつけ者」と呼ばれ周囲に軽んじられたが、家督を継ぐと弟・信勝(信行)との家督争いを制し、尾張一国の統一を成し遂げる。1560年の桶狭間の戦いでは、圧倒的な兵力差にもかかわらず今川義元の本陣を奇襲して討ち取り、一躍その名を全国に轟かせた。
その後、美濃の斎藤氏を滅ぼして稲葉山城を岐阜城と改め本拠とし、「天下布武」の印判を用いて天下統一への意志を鮮明にした。足利義昭を奉じて上洛し、いったんは室町幕府再興に協力するが、後に義昭と対立してこれを京から追放し、事実上幕府を終焉させた。
信長は既存の権威や慣習にとらわれない革新的な統治で知られる。城下町では楽市楽座を導入して商業の自由化を進め、各地の関所を撤廃して物流を活性化させた。軍事面でも鉄砲を組織的に運用し、1575年の長篠の戦いでは馬防柵と鉄砲隊を駆使して武田勝頼率いる騎馬軍団を打ち破り、合戦のあり方そのものを変えたとされる。
宗教勢力への対応は苛烈で知られ、比叡山延暦寺の焼き討ちや、10年に及んだ石山本願寺との石山合戦など、抵抗する寺社勢力には容赦なく武力で臨んだ。一方でキリスト教の布教は容認し、宣教師を通じて南蛮貿易や西洋の文物・技術を積極的に取り入れるなど、開明的な一面も併せ持っていた。
居城とした安土城は、五層七重の壮麗な天守を備えた日本初の本格的な近世城郭として知られ、城下では自由な商取引が奨励された。宣教師ルイス・フロイスら南蛮人とも親しく交わり、地球儀や時計といった異国の品々にも強い関心を示すなど、武人としての枠に収まらない好奇心の持ち主でもあった。気性は激しく家臣にも一切の妥協を許さなかった一方、出自にとらわれず実力本位で人材を登用する合理性を持ち、低い身分から取り立てられた羽柴秀吉はその代表例である。
家臣団には柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉ら有能な武将が名を連ね、信長の天下統一事業を支えた。しかし1582年、中国地方の毛利攻めへ向かう途上、京都・本能寺に宿泊していたところを重臣・明智光秀の謀反により急襲され、包囲される中で自害に追い込まれた(本能寺の変)。
天下統一を目前にしての非業の死であったが、信長が切り拓いた統治手法や経済政策の多くは、後を継いだ豊臣秀吉、そして徳川家康による天下統一事業へと受け継がれ、近世日本の礎となった。既成概念を打ち破り続けたその革新性と苛烈な気性から、信長は今なお戦国時代を代表する「革新者」として語り継がれている。
信長の私生活における人物像も興味深い。正室・濃姫(帰蝶)との間には実子がなかったとされるが、多くの側室との間に信忠・信雄・信孝ら十数人の子女をもうけた。相撲観戦を好み、家臣や領内の力自慢を集めて上覧相撲を頻繁に催したほか、鷹狩りにも情熱を注ぎ、伊吹山では薬草園を開くなど博物学的な関心も示している。茶の湯を政治的な道具としても活用し、功績のあった家臣に名物茶器を下賜する「御茶湯御政道」を確立したことも、信長の統治手法の独自性を物語っている。
信長の死後、その事業を継承した秀吉・家康は、いずれも信長の政策を換骨奪胎しながら発展させた。楽市楽座の理念は江戸期の商業政策の原型となり、鉄砲を軸とした集団戦術は後の軍制にも影響を与え続けた。近年の歴史研究では、信長を単なる破壊者としてではなく、既存の権威体系を再編しながら中央集権的な統一国家の枠組みを構想した先駆者として再評価する動きも進んでいる。

