あわや かつひさ
| 地域 | 北陸 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 若狭武田家臣 |
| 大名家 | 若狭武田 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 「不屈の武者」・独立 |
粟屋勝久は若狭武田氏の重臣で、越中守を称した。三方郡の国吉城を拠点に、永禄6年(1563)から朝倉氏の侵攻を繰り返し退けた。元亀元年(1570)に織田信長に加わり、のちに丹羽長秀の下で三方郡を治めた。
若狭武田氏の重臣・粟屋氏
粟屋勝久は若狭の武将で、通称は越中守。粟屋氏は安芸から武田氏に従って若狭に入った家で、武田家臣団の中で最大の勢力を持った時期がある。
勝久は三方郡の国吉城(福井県美浜町)の城主である。国吉城は弘治2年(1556)に勝久が築いたと伝わる。越前との国境に近く、若狭東部の守りの要であった。
なお、同時代の文書には「粟屋越中守勝長」の名が見える。勝久という名は戦国期の史料で裏付けられないとする研究もある。
国吉城の籠城戦
この頃の若狭武田氏は、当主の父子対立や家臣の反乱で弱っていた。越前の朝倉氏は反乱鎮圧に援軍を送り、若狭への影響力を強めた。
永禄6年(1563)から、朝倉氏は国吉城を毎年のように攻めた。勝久は地元の武士らとともに籠城し、攻撃を退け続けた。朝倉氏が滅ぶ天正元年(1573)まで、城は落ちなかった。永禄11年(1568)には、朝倉氏が幼い当主の武田元明を越前へ連れ去った。勝久はこのときも朝倉氏に従わなかったとされる。
国吉城の籠城は、城の麓を通る丹後街道を朝倉軍に抜かせなかった点に意味がある。この道は越前から若狭の小浜へ向かう主要な道であった。
織田信長への従属
元亀元年(1570)4月、越前攻めに向かう織田信長の軍勢が若狭に入り、国吉城に入城した。勝久は織田方に加わった。
天正元年(1573)の一乗谷攻めで、勝久は一番乗りを果たしたと伝わる。このとき持ち帰った愛染明王図や青磁の皿などを、地元の寺社に寄進したという。
朝倉氏の滅亡後、若狭は丹羽長秀の支配下に入った。粟屋氏は長秀の下で三方郡に支配権を持った。勝久は天正13年(1585)に没したとされる。
ゆかりの地
- 国吉城址(福井県美浜町):勝久の居城。朝倉氏の攻撃を退け続けた山城で、美浜町指定史跡・続日本100名城。
















